★研究進行をストップして作業やり直し2015年11月09日 21:28:50

▲今までは、本文中に(  )にして組み込んだ。
●⑬7月1日晴、今朝未明図らずも福山郷の方へ1中隊差出すようにわかに達しされ、3時頃西別府村(旧加治木町西別府)出立して国分鳩牧(小牧、旧隼人町小浜オバマ)にて朝飯追い付き、それより諸所へ小休み、小村(旧国分市広瀬小村新田、国道10・天降アモリ川・水戸川)にて時分の素麺等食べ、福山町に着、昼飯を食べ、佳例川村(旧福山町佳例川)まで踏越し相成るべき筈のところ、その道中難儀、殊に左我4小隊は常に運道隊に付、福山町止宿、右4小隊は通山村まで踏越相成る【20004136】:(36)
▲現在は、すべて※印で下記に並べてある。
●⑬7月1日晴、今朝未明図らずも福山郷の方へ1中隊差出すようにわかに達しされ、3時頃西別府村出立して国分鳩牧にて朝飯追い付き、それより諸所へ小休み、小村にて時分の素麺等食べ、福山町に着、昼飯を食べ、佳例川村まで踏越し相成るべき筈のところ、その道中難儀、殊に左我4小隊は常に運道隊に付、福山町止宿、右4小隊は通山村まで踏越相成る※西別府村(旧加治木町西別府)※国分鳩牧(小牧、旧隼人町小浜オバマ)※小村(旧国分市広瀬小村新田、国道10・天降アモリ川・水戸川)※佳例川村(旧福山町佳例川)【20004136】:(36)
▲以上の変更作業をここ10日近くやっている。お蔭で研究は7月7日でストップ。この作業が今は7月1日分の途中なので7月7日分まで修正するには後10日。そして全て7月24日分まで終るのは・・・・・。
 実は上の「※」印でまとめるのは、一行ずつ段下げすれば見易くなる。しかし、この資料はエクセルに入れ込むので、すると、段下げした分はそれぞれがエクセル上では「一行」(1セル)必要になる。それを避けるにはこのまとめ方しかない。

★パソコン作業での出来事2015年11月12日 23:23:57

▲エッ!ショートカットで「37GB」ハードディスクとあるのにアクセスしない。
(答え) このショートカットを作成した時には確かにパスは「F:」であった。然し今日は別USBが「○○○(F:)」となっていたのだ。今日は「37GB」は「G:」だったのだ。※ノート用外付け機のパスは「I:」と「J:」に予め設定している。
▲資料に「地藏峠(多良木町槻木)」としていた。たまたま国土地理院電子地図で作業中だったので、眺めるも「ない?」。
(答え) これは実は「地名箋」(「征西戦記稿」の一部)から私が推測したものだったのだ。てっきり電子地図に載っているとカン違いしていた。私には地図上のその文字が目に浮かぶのだが、夢だったのか。
▲保存は今はデスクトップ機・ノートパソコン双方ともに①外付けハードディスク上で作業して保存、それを②デスクトップ画面にあるDドライブ上のフォルダのショートカットにドラッグ、③同様にUSB(SONY8GB)へドラッグ、続いて④ポータブルハードディスクのフォルダにドラッグ、最後に⑤DropBoxのフォルダにドラッグ。もっともデスクトップ機ではさらに「37GB」(古いポータブルハードディスク)にドラッグ。
 そこまでしなくてもと思うが、先日、デスクトップ機で作業して、夜ノートパソコンにデータを移そうとしたら、③・④・⑤の作業せずに終わっていたらしく、再度デスクトップ機を起動して処理せざるをえなかった。オンラインストレージの「OneDrive」が今使えないので、しばらくはこのまま。
▲画像は旧加治木町役場前踏切を鹿児島に向かう「七つ星」。

★どうやら本来の研究作業へ2015年11月19日 02:00:50

姶良市加治木町を鹿児島へ向かう「七つ星」
▲「※」を地名に付けて該当文の末に並べ替える作業が、1877年7月5日の項まで終った。次の6日から10日までは済んでいるからとコピーしたら、何と7日の項は旧態のままで、この日の分はまた作業再開する破目に。そして8日から24日までの項の本来の作業に入った。現在は7月12日の項である。何とか12月半ばまでには終らせたいものだ。
●7月12日の項から
この日宮崎県西米良村に展開する西郷軍は官軍の攻撃を受けて後退する。以下は某筆記人の記録から(私の分類「宮崎西戦」)
▲②翌早(7月12日朝なり)官軍果して西八重及び板屋に迫り、大挙来り撃つ、たちまち我塁前の林中に烟(煙)起る、思うに夜中に来てここに屯し、我兵に備えるなり、既に西岳を望めば官軍さらに兵を一山家の庭外に部署し、二道に分れて山を下る、時に西八重戦まさに酣なり、我隊また大斥候を大河口に出す、途中官軍に遇って相戦い、自ら退きて塁に拠て待つ、やがて西八重砲声稀疎、しかしてそのやや東上するを覚える、これを久しくして西八重の敗報至る、且つ曰く「速かに兵を村所に退けよ」と、時に余一房の塁にあり、まさに営に返らんとす、途中一兵士の来り告るに会う、そこで塁兵に報じて山を下る、靏田六郎・伊知地種元山下にあり曰く「敵の先鉾(鋒)既に上米良の営に来り、大河内の敵もまた既に塁外に迫る」と、他方我一房の兵なお未だ至らず、勢い甚だ急迫、なお数兵を留めて大河内を守り、相誓って去らず、やがて一房の塁兵至る、そこで守を撤して川を渡り(水勢矢の如く深さ腰に及ぶ)山をよじ登って逃れる、行く未だ数丁に及ばず、顧て前岸を見れば大河内口の官兵、上米良に向う者が路に相踵ぐ(次ぐ)、衆相警め、潜かに去りて路を石堂山に取る(石堂は著名の高山たり)、路尤嶮、加えるに雨潦沈濘幽窮深阻人迹これ通ぜざる所たり、崖谷嶮隘隆石芒峭、択(選び)て然る後に歩を投ずべし、たまたま日既に暮れ、衆大いに疲れる、たちまち一峻坂に会う、深茅路を埋み岩巉起伏す、伏してこれを視れば截然として屏を立てるが如し、然して前路闇黒、また認むべからず、衆皆援けよじ登ってこれを下る、後者躓き(つまづき)てこれに触れれば前者随て■(転倒)し、ほとんど棊を倒すが如し、たちまち滝(虹の滝)あり、暗中万雷を崩すが如し、導者云く「一歩を誤るときは千仭の谷底に陥る」、■■衆相戒む、ようやく過ぎるを得たり、直下10余丁、一山家に至れば米良兵あり、曰く「これは竹原の山中なり、貴隊聞かずや敵は既に村所に充斥す」と(村所は竹原の東1里にあり)、ここにおいて我隊道を木浦に取る、木浦の守兵我隊の至るを見て大いに喜び共に守らんと欲す、一方本道(小川・村所)形勢危急、本営未だ何れにあるを知らず、そこで遂に小川に向う※大河口(大河内、椎葉村大河内、一ツ瀬川)※石堂山(1547.0m、西米良村上米良)※村所(ムラショ、西米良村村所、国道219・265・板谷川・一ツ瀬川)※竹原(西米良村竹原)※木浦(西米良村小川、県道316・小川川)【20036086】:(17)
○文章は適宜修正したもので原文に添っています。

★「スクリーンショットが追加されません」2015年11月21日 01:51:09

▲Dropboxを使っていて最近多用している機能がある。従来からあるキーボードの「PrintScreen」をクリックして、今見ているディスプレイの画面をそのままコピーできるのだが、それはさらに「ペイント」を起動して貼り付ける、そして整形する、そして保存するという過程が必要だった。今は有難いことに、「PrintScreen」をクリックした途端に、Dropboxが親切にも「スクリーンショットが追加されました」と教えてくれ、それはフォルダーにちゃんと保存されている。特に便利を感じたのは、Googleの地図上で「ストリートビュー」を使う時だ。簡単に風景がコピー出来た。繰り返し、繰り返し。まるでそこを旅行している感覚が生まれる。
▲そこで、過日我デスクトップ機で、久しぶりに「PrintScreen」をクリック。「あれっ、保存されない」。ネット情報を頼りにいろいろ試みたが復元されない。諦めた。ところがノートパソコンの方では出来る。
※訂正、次の日ダメ元でやったら「スクリーンショットが追加されました」と。私「今日はだろう?」。Windows 10はドキドキさせるね。
▲画像は鳥が水上1mぐらいを飛んで行く所。狙いは魚。この口を開けた状態で掬うのか? 確認出来ず、実は写した自覚のない画像だから、場所は姶良市別府川(本当の地元人はビュウガワと言う)河口。

★官軍嚮導者某の記録から2015年11月27日 19:20:44

別府川、帖佐橋・船津橋中間付近
▲1877年7月12日、現在の鹿児島県曽於郡大崎町で官軍と西郷軍が激突した。西郷軍が圧し、官軍は西の串良(現鹿屋市串良)へ海岸線の道を後退して退いた。その日を某は以下のように記録している。
●それより串良の方へ退陣のところ、彼地まで列越され、ここに1泊す、時に旧六月二日(7月12日)なり
※原文を少し読みやすくしてある
 これによると彼は退却する官軍に連れられて串良へ行ったのである。そもそもその始まりは、彼が官軍(別働第一旅団)本営のある高隈攻撃に行った際、多分捕虜となり、官軍隊長「井之上」に嚮導者(案内者)とされたことに起因する。「井之上」は「井ノ上」とも記されており、本当は「井上」ではないかと私は考える。鹿児島では「井之上」姓が多いので、彼はそのように記したのであろう。彼は私の研究作業上では「鹿児島大隅戦」参加者の「隊名不明」に分類されている。本当は官軍側として分類出来ようが、官軍側は全て「征西戦記稿」にのみに依存している。
▲結局、官軍の大隅半島制圧はうまく行かず、余裕(?)の西郷軍は防衛拠点の財部・都城方面へ兵を送り込む。
この頃官軍側は、①小林から第二旅団が東進し、②霧島山麓からは第三旅団・別働第三旅団が都城へ、③国分からは第四旅団が同じく都城へ、④人吉攻略の主役で最大旅団の別働第二旅団は九州山地を広く覆って東へと進んでいた。また、⑤高千穂町から一ツ瀬川沿いに第一旅団が戦いつつ、延岡を目指し、⑥熊本鎮台は宮崎・大分県境で対峙して、熾烈な山岳戦をしていた。