★どうやら本来の研究作業へ2015年11月19日 02:00:50

姶良市加治木町を鹿児島へ向かう「七つ星」
▲「※」を地名に付けて該当文の末に並べ替える作業が、1877年7月5日の項まで終った。次の6日から10日までは済んでいるからとコピーしたら、何と7日の項は旧態のままで、この日の分はまた作業再開する破目に。そして8日から24日までの項の本来の作業に入った。現在は7月12日の項である。何とか12月半ばまでには終らせたいものだ。
●7月12日の項から
この日宮崎県西米良村に展開する西郷軍は官軍の攻撃を受けて後退する。以下は某筆記人の記録から(私の分類「宮崎西戦」)
▲②翌早(7月12日朝なり)官軍果して西八重及び板屋に迫り、大挙来り撃つ、たちまち我塁前の林中に烟(煙)起る、思うに夜中に来てここに屯し、我兵に備えるなり、既に西岳を望めば官軍さらに兵を一山家の庭外に部署し、二道に分れて山を下る、時に西八重戦まさに酣なり、我隊また大斥候を大河口に出す、途中官軍に遇って相戦い、自ら退きて塁に拠て待つ、やがて西八重砲声稀疎、しかしてそのやや東上するを覚える、これを久しくして西八重の敗報至る、且つ曰く「速かに兵を村所に退けよ」と、時に余一房の塁にあり、まさに営に返らんとす、途中一兵士の来り告るに会う、そこで塁兵に報じて山を下る、靏田六郎・伊知地種元山下にあり曰く「敵の先鉾(鋒)既に上米良の営に来り、大河内の敵もまた既に塁外に迫る」と、他方我一房の兵なお未だ至らず、勢い甚だ急迫、なお数兵を留めて大河内を守り、相誓って去らず、やがて一房の塁兵至る、そこで守を撤して川を渡り(水勢矢の如く深さ腰に及ぶ)山をよじ登って逃れる、行く未だ数丁に及ばず、顧て前岸を見れば大河内口の官兵、上米良に向う者が路に相踵ぐ(次ぐ)、衆相警め、潜かに去りて路を石堂山に取る(石堂は著名の高山たり)、路尤嶮、加えるに雨潦沈濘幽窮深阻人迹これ通ぜざる所たり、崖谷嶮隘隆石芒峭、択(選び)て然る後に歩を投ずべし、たまたま日既に暮れ、衆大いに疲れる、たちまち一峻坂に会う、深茅路を埋み岩巉起伏す、伏してこれを視れば截然として屏を立てるが如し、然して前路闇黒、また認むべからず、衆皆援けよじ登ってこれを下る、後者躓き(つまづき)てこれに触れれば前者随て■(転倒)し、ほとんど棊を倒すが如し、たちまち滝(虹の滝)あり、暗中万雷を崩すが如し、導者云く「一歩を誤るときは千仭の谷底に陥る」、■■衆相戒む、ようやく過ぎるを得たり、直下10余丁、一山家に至れば米良兵あり、曰く「これは竹原の山中なり、貴隊聞かずや敵は既に村所に充斥す」と(村所は竹原の東1里にあり)、ここにおいて我隊道を木浦に取る、木浦の守兵我隊の至るを見て大いに喜び共に守らんと欲す、一方本道(小川・村所)形勢危急、本営未だ何れにあるを知らず、そこで遂に小川に向う※大河口(大河内、椎葉村大河内、一ツ瀬川)※石堂山(1547.0m、西米良村上米良)※村所(ムラショ、西米良村村所、国道219・265・板谷川・一ツ瀬川)※竹原(西米良村竹原)※木浦(西米良村小川、県道316・小川川)【20036086】:(17)
○文章は適宜修正したもので原文に添っています。