★官軍嚮導者某の記録から2015年11月27日 19:20:44

別府川、帖佐橋・船津橋中間付近
▲1877年7月12日、現在の鹿児島県曽於郡大崎町で官軍と西郷軍が激突した。西郷軍が圧し、官軍は西の串良(現鹿屋市串良)へ海岸線の道を後退して退いた。その日を某は以下のように記録している。
●それより串良の方へ退陣のところ、彼地まで列越され、ここに1泊す、時に旧六月二日(7月12日)なり
※原文を少し読みやすくしてある
 これによると彼は退却する官軍に連れられて串良へ行ったのである。そもそもその始まりは、彼が官軍(別働第一旅団)本営のある高隈攻撃に行った際、多分捕虜となり、官軍隊長「井之上」に嚮導者(案内者)とされたことに起因する。「井之上」は「井ノ上」とも記されており、本当は「井上」ではないかと私は考える。鹿児島では「井之上」姓が多いので、彼はそのように記したのであろう。彼は私の研究作業上では「鹿児島大隅戦」参加者の「隊名不明」に分類されている。本当は官軍側として分類出来ようが、官軍側は全て「征西戦記稿」にのみに依存している。
▲結局、官軍の大隅半島制圧はうまく行かず、余裕(?)の西郷軍は防衛拠点の財部・都城方面へ兵を送り込む。
この頃官軍側は、①小林から第二旅団が東進し、②霧島山麓からは第三旅団・別働第三旅団が都城へ、③国分からは第四旅団が同じく都城へ、④人吉攻略の主役で最大旅団の別働第二旅団は九州山地を広く覆って東へと進んでいた。また、⑤高千穂町から一ツ瀬川沿いに第一旅団が戦いつつ、延岡を目指し、⑥熊本鎮台は宮崎・大分県境で対峙して、熾烈な山岳戦をしていた。