★都城の戦(1877年7月24日)2015年12月18日 01:20:51

2010年3月撮影
▲私の9月以来の研究作業も、つい先日終った。最後は1877年7月24日の項で、中心は「都城の戦」であった。しかし厳密さを加えるなら、都城の戦ではなく、都城陥落を目指す官軍側の三面合撃で周辺部で敗退した西郷軍が大慌てで退いたというのが真実であろう。
▲資料紹介(幾分か読み易く変えてある)※エクセルで261行分の1行分。
六月十四日(7月24日)、早天朝7時頃、味方敗北の報知に付、末吉町中において列を作る際、既に敵三方取り囲み砲発す、列中倒れ死する者、恰も秋葉の風に落るが如し、大敗して逃げ、三俣に宿す、一の四28名位出でず、この日井元勇四郎殿・名越傳吉と面會、(以下略)
▲この日末吉にあった筆記人等の部隊は前日あった官軍との戦争で疲れ、ぐっすり寝込んでいた。そこに官軍急襲の連絡である。同様な事例は財部(ほぼ現国道10号線沿い)、さらに都城市の西の庄内町付近でもあった。都城はアッという間に官軍が乱入、別記録には弾薬・食料・器械等が奪われ、病院の移転すら間に合わなかったと記す。一連の戦の終りの始まりであった。
▲画像は財部の戦を示す、国道10号線の曽於市立光神(こうじん)小学校前。この日第四旅団はここを突破して一挙に都城へ向かった。
 ただ、現在の私の手元資料にはその記録は見えないが、某資料に「大隅曽於郡財部小陣山」での死者数11名を挙げる。「小陣山」は「光神山」と考える。