★研究作業が大作業になった2016年02月22日 22:26:18

耳川南岸から北岸を望む
▲1877年8月7日、官軍は旧東郷町山陰を突破し、その日の内に「富高新町」(日向市)へ突入した。しかしこれは一部隊で、「孤軍懸軍」の危惧を抱えていた。しかし耳川北岸(東岸)に構えた西郷軍は後路遮断を恐れた。そして翌日官軍は多少のムリを承知で一斉に各旅団が耳川を渡河する。そして前日の突破の報知もあって、西郷軍は全て耳川北岸より退却を始める。
 私は実は8月7日の山陰突破が即西郷軍の退却と思い込んでいた。だから記事に「山陰」があるのは全て日付を「807」(8月7日)にした。中には「八日」との字句があるにも関わらず。そして一大決心をし、この日の記事を見直した。
 そのきっかけは以下の2文例にある。共に原文は「カタカナ」。
●(西郷軍)八月八日頃官軍山陰を破り富高新町へ衝入、邊見十郎太これを追散さんと押伍以上の人員二十者(名)位を精選し、各本隊には分隊長一名を付置、午前五時頃笹野本営を出発し速に冨高新町に到る、官軍已に橋を撤し柵を結ひ堅く拒守するを以て間道を取り、山谷の険隘を経て官軍の輜重を運送するに行逢ひ、抜刀して走込み四斤炮二門并に「ウイツトル」銃・弾薬・兵粮分捕※「西南之役懲役人筆記」(鹿児島県史料)
●(官軍)我砲兵山陰より新町に来るの途次之に遇ひ、軍属1人死し、銃3挺弾薬4箱を失ひ為めに山陰・新町間の通路を絶つ、然れども賊敢て此に扼せずして走る、故に此路忽ち又通ず※「征西戦記稿」
◎私のミスは「山陰を破り」を見て速断「807」としたことだ。2文例を見ると「808」が正解であると分る。つまり西郷軍は8月7日時点ではその多くは富髙新町陥落を知らずに、耳川北岸にあって、南岸にある官軍と対峙していたのである。
 かくしてエクセルセルの「807」70個弱が「808」へ変わった。そして「808」からは大量の「降服」・「帰順」が始まる。もちろん「帰郷」も。