★研究方法改善へ(続)2016年04月28日 00:12:41

▲官軍資料「征西戦記稿」の記事を1877年9月5日から30日までを並べ終り、いよいよ西郷軍側資料に取り掛かった。いきなり大訂正。しかし、夜までに9月8日までを並べ終った。まあ順調か。
●「征西戦記稿」9月24日部分から、その「概説」と私が名付けた記事から。文意を生かしつつ、読み易く工夫してあるつもり。
①時既に至り、残月西に傾き、露華照映せり、各旅団攻撃兵は各自の部署に随い、第一・第二・別働第二旅団は城山東北隅突出の賊塁に、別働第一旅団・熊本鎮台は西面より城山中央隆盛院迫に、第四旅団は北面より岩崎谷に、第三旅団・新撰旅団は東南面より城山正面に向い、多くは既に密かにその哨兵線外隠蔽の地に潜出し、号砲3声同時斉しく奮進す、この時預(あらかじ)め攻撃に備える軍艦清輝号より克虜伯砲1門を上ノ原に架し、賊の要害たる東北隅突出の一大塁を撃って声援をなす、そして新撰旅団の兵は前面右翼より城山の前部に上り、第一・第二旅団の兵は左右翼及び中央より、三面が並び進み、賊中第一の要害東北隅突出の2大塁を連陥し、別働第一旅団・熊本鎮台の兵は隆盛院迫に上り、第三旅団の兵は城山正面左翼より島津邸に入り、火を放って照国神社背後の賊塁に迫り、第四旅団の兵は岩崎谷左辺の山腰より進み、その援隊は岩崎谷口を扼し、各方面の兵合して岩崎谷の賊拠を衝突す(下略) 【30064169●巻64城山戦記】
②賊軍は三面の圧迫に堪えずして、遂に谷口の一塁に聚る、第四旅団の兵銃槍突貫し、賊60余人を一塁中に攢めて刺して遺す(残す)なし、塁を距る10余歩に一肥大の死屍を得たり、これを撿するに右腕旧刀瘢あるにより、その昔は元勲にして今は逆賊の巨魁たる西郷隆盛なる事を知れり、しかしその頭顱(とうろ)を得ず、百方捜索し、一賊で重創を負う者を捕え、これを訊鞠し、初めて隆盛がこの朝銃創を負い、別府新助これを刎ね、地中に埋蔵せしを知り、堀ってこれを砂泥中に得たり、また塁中の積屍を照撿して桐野・村田・邊見・池上以下賊中屈指の人物10余人を得たり、前日放還せし所の山野田一輔の屍もまたあり、この余各旅団の斬獲無慮500~600、隊長以上の者すこぶる多し、野村忍助・別府九郎は熊本鎮台に、阪田諸潔は第四旅団に降る、余賊また一人を遺(残)さず【30064170●巻64城山戦記】
※西郷隆盛が死去した場所は、岩崎谷洞窟から下って、現今「城山トンネル」前を過ぎ、JR鹿児島本線沿いに少し下った所に「西郷隆盛終焉の地」碑があるが、実際はその少し手前のマンション敷地内と考えられる。画像参照を!!

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