★研究作業から2016年08月27日 03:37:54

▲某日の研究作業はほぼ熊本隊の記録の修正作業であった。熊本隊に関する西南の役の1877年4月24日から5月17日に該当する記録はエクセルのセル200余相当。その1割の20余が修正対象となった。エクセル資料4ファイル、ワード資料4ファイルを日付単位で修正する大作業になった。きっかけは以下の資料である。
●同四日晴、午後三時比より雨降出、一午前八時比より熊本隊照魂祭青井神社に而有之に付、弐番中隊より五番中隊迄相揃参詣す、青井神社に而御酒等有之、正午之比帰宿す、午後二時比より青井社に而角力に付参り、同六時比に帰宿す【20042071】:(8)
※これを5月3日の分がコピーされている箇所に、5月4日の分の資料にコピーして上書して、その資料作成作業は終る筈であった。しかし、そこの3日の資料には「青井社」での祭礼の事実が記されている。すると「同四日」で始まるこの一文は3日にはめ込む必要がある。ところがこともと「同三日」の記事があるから困る。そこでこの日記を点検することにした。それには同じ熊本隊の記録と照合する必要があった。かくして20余が修正された。うち半分はこの日記の記録者に関わる。熊本隊(池邊隊長)は全員ほぼ同戦地で戦い、記録も精緻であるのでこのような修正作業がたまたま出来た。結局5月3日にこの人物の日記が「2つ」並ぶことになったが。
※熊本隊は青井神社で5月3日、戦歿者の慰霊をし、その後で相撲大会も行われた。それは鹿児島県側の資料にも「見物した」と記されている。そしてその日の内に1中隊(岩間隊)が薩軍の依頼を受けて五木村へ向かう。翌4日には現球磨村一勝地(イッショウチ)に主力隊を送る。芦北方面の薩軍支援の為であった。ところがどうやらその必要がないとのことで、同じ球磨村の遠原(トウノハル)に5日着す。ここは水俣・大口方面との間道がある。こうして熊本隊は水俣・大口戦の主力を務めることになる。