★研究作業から2016年10月02日 04:28:04

▲1877(明治10)年5月5日、人吉から急行帰県した西郷軍の薩軍振武隊を中心とする部隊は、鹿児島奪還を図った。結果としては逆に官軍側の体制を強化させることになる。以後6月24日まで、城山と直下の市街地を占拠する官軍を、吉野・草牟田・西田・武岡・谷山に散在する西郷軍が包囲する図式が展開する。
●5月5日の官軍側の記録(別働第一旅団関係:「黒木日誌」から)
「 五月五日風雨、(此日朝賊将能勢弥九郎城山ニ於テ我第一大隊第二中隊ニテ討取ル)
一午前第四時三十分、賊新照院ヨリ襲来ニ付、城山背後ノ我哨兵開戦、夫ヨリ南北ノ哨兵追々ニ戦ヒ、予軍旗ヲ護シ、我諸哨所ヲ巡検指揮ス、同七時頃賊敗走、我隊死傷四人(死二人傷二人)、賊ヲ斃ス十余名
一此日未明ヨリ西田橋前後、其外南北士族邸并市街等焼失ス、
一本日城山ニアル士族邸ヲ仮本部トス、
一午前第十時過予本陣ニ至ル、午後第五時城山仮本部ニカヘル、
一哨兵配布前日ノ如シ」
●5月5日の西郷軍側の記録(「西南之役懲役人筆記」)。筆記人は振武三番中隊の1隊員、城山攻撃後に鹿児島奪還を図るための待機部隊であった。※原文を少し読み易く替えてある。
「同5日黎明また発して武村に至るに、官軍城山及び新上橋の河堤より発射す、我兵通過して高麗橋に至り、2中隊を二手に分ち、一つは吉井為一右小隊を率いて橋上を衝き、武隊の左小隊これに援たり、一つは余が左小隊を率いて肥田某屋敷外より川を渡らんと武(人名)隊の右小隊を応援とし、既に河堤に至るに、官軍河中に柵を植え塁を固くし、我軍の来るを覚り、たちまち兵を戒め、発銃の要意(用意)をなす、我兵渡ること出来ず、しばらく間を伺う、然るに北郷来り、「橋上の敵、塁厳にして渡ること出来ざるにより兵を潜め、城山の変を待ち、味方山の頂上に登るを見たら直に死闘して渡らん」と言う、よって兵を家屋の傍に伏す、時に城山の砲声あたかも雷の如し、午前9時頃に至り、にわかに砲声静まり、動静詳かならず、よって斥候を本営及び城山に駈らす、午後4時頃に及んで斥候帰り来り「城山各地の攻口は官軍塁を高くし、柵を結び、我軍憤戦すといえども志を得ず、よって全軍を伊敷村に引揚ぐべき令あり」、そこで(我々も)兵を揚げ、伊敷村に至り守兵す、本日戦い始まるや、官兵城外に放火し、火炎天を焦し、烟煙地を覆い、燃えること3昼夜に及ぶ【12081034】:(41)