★せっかく書いていたのに何故消えた2016年10月08日 20:50:37

今年最後の蝶か
▲私はアサブロの記事は原則ワードで書いてからコピー・貼り付けをしている。昨夜もそうしていたら、ちょっと他の用事をしている間に画面が消えている。いつものように軽く始動ボタンを押す。ところがそれは強制終了となって作成画面は消えてしまった。
▲1877年5月10日、水俣から大口まで押し込んでいた官軍別働第三旅団が一挙崩壊する危機を迎えた。薩軍猛将邊見十郎太の陣頭指揮する薩軍と急峻な山を越えて官軍の背を襲った熊本隊等の連携が効を発揮した。その熊本隊の一記録を以下に記す。文章は少し替えてある。
●「10日未明各隊皆蓐食(寝床で食事)して立つ、4中隊各々次々発す、池邊・山﨑2氏自らこれを督す、櫻田氏は塔之原村に留る、もともと傭うところ山氓を先導とす、この日過る所は前日と路を異にし、絶て人跡なし、畿囲の老木、喬樹直立数十丈、森然欝然天に参り日を蔽い、泠気颯々人の肌骨を侵す、この如きの深山絶谷、未だかって見ざる所なり、先導到る所の木枝藤葛、隨って伐り、隨って行く、10間乃至20・30間毎に白紙を樹梢に約して後軍の目標とす、行く4里余、午時山野の山上に至る、山やや裸なり、眼界涯なく一望にして薩隅の地形をことごとくすべし、この時邊見隊の戦はまさに酣に大礟(砲)小銃を乱発し、火を山野村に放ち、烟焔天を蔽う、敵軍狼狽ようやく小河内山上に向って乱走せんとす、我4中隊これを俯瞰し勇気百倍、一斉大喊、相競って山を下り、敵の別軍谷下にある者を射撃す、その兵300人許、我各隊の下撃に辟易し、倉皇(あわてて)器械を棄てて奔竄(ホンサン)す、ここにおいて小河内山上の敵を尾撃す、我兵かつ戦いかつ進む、敵軍隨って敗れ、隨って走る、薄暮大境(すなわち薩肥経界の所で鬼神峠と称す)を越え、水俣地方に向って走る、我軍敢て窮追せず、この夜山上に露宿す、星月娟々(ジョウジョウ)冷気人に迫る」
※熊本隊が出発した本営があったのは、現球磨村一勝地(イッショウチ)の「遠原(トオバラ)」。この記録では「塔之原村」。JR一勝地駅から1駅人吉よりに那良口駅がある。ここから那良川沿いに県道325を上って行くと、遠原があり、そこから鹿児島県旧大口市の山野へ出る山道は一部の狩人しか分らないような道無き道だったようである。
※「大境」は私の古い交通地図(2004年版)には、水俣・大口を結ぶ国道268に同名バス停が見える。

コメント

トラックバック