★今年の研究作業納め2016年12月30日 00:15:22

我が家の冬のバラ
▲研究作業は今は官軍の動向を優先して「本文編」を作成中である。その方が研究作業上で有益であると考えた。そして今は1877年4月12日を記録中である。以下は4月8日に熊本城に官軍一部隊が西郷軍の包囲を破って、八代より北上中の衝背軍(黒田清隆参軍)に投じた突破作戦の記録の一部である。
※以下にある「侵襲隊」は突破する「突圍隊」を助けた部隊。
※熊本城解放は4月15日。
※ほぼ「征西戦記稿熊本城戦記」原文のまま。
●突圍隊○司令官(奥少佐)○歩兵第十三連隊第一大隊第一中隊・第二中隊・第三中隊・第四中隊○参謀官大迫大尉・白井少尉・河原伍長、軍医以下及び定則の看病人、卒傷者運搬役夫10名毎に取締2名を附し、弾薬運搬役夫(一名負に六百発)15名毎に下士1名を附す
●将校以下悉く繃帯「リント」を懐にし、草鞋を穿ち、餅4個・団飯1個・馬肉大約50目を粮食に充つ、且つ給養軍曹・炊事伍長は突貫の進路に於ては別に職務なきを以て分隊缺員の軍曹或は軍曹代に補し、準備已に全く整頓し、去留の人共に相訣別す、其感慨の情、惻然として自ら人を動かせり
●午前4時、侵襲隊坪井より明午・安巳2橋の地方に進行し、突圍隊之に次ぐ
●賊は安巳橋近傍の篝火を焚き、哨兵を張る、警視隊の前哨竊かに近づく、賊見て其党と為し問て曰く「敵来るや」と、哨兵答ふ「憂ふる勿れ」と、乃ち急に退て本隊に報ず、其隊乃ち吶喊して直ちに突き、賊数名を斫り数塁を抜く(警視隊は左側の塁を抜く)、賊狼狽兵器を棄て遁る、竹内實直警部挺身追撃丸に中て死す、巡査加藤某追て一賊を捕ふ、進て手取・水道町に至れば天明く、又進て白川河岸の賊塁を距る100mの地に至れば賊兵防戦す、然れども侵襲隊の突撃其勢ひ猛烈なるを以て支る能はずして潰散す
●突圍隊機に乗じ、銃槍を揮ひ砲烟の間に挺し鬨声と共に突進し、河岸の塁に至り、数人を斫り或は銃槍を以て之を斃し、接戦僅に数分時にして安巳橋より距離100mの上流を濟る、賊は新屋敷及び迎町地方に遁逃す、侵襲隊之を追撃す
●突圍隊乃ち賊線を蝉蛻し霧に乗じて水前寺村に至り、園庭の一亭を燬き進路を城兵に報じ、八丁馬場を右折し健軍村を経て魚取橋を過ぎ、中牟田村より六嘉村中央に至り暫く兵を休め、川尻口の官軍の所在を村民に問ひ之をして嚮導せしめ、路を御船街道に取り陣之橋を過ぎ、萬願寺村を経て緑川を徒渉し隈庄に至り、旅団撰抜隊の斥候に遇ひ、共に戦状を告げ相慶す、其快想ふ可きなり、尋て木原山下に憩ひ、午後4時遂に宇土駅に達し衝背軍に合するを得たり