★ワードの画面変更&研究作業2017年02月04日 01:35:05

▲最初に、また投稿ボツ。
安倍首相がトランプさんに会いに行くのに手土産を準備しているとして、新聞には一面トップに「米雇用創出策提示へ」とあった。
●投稿作品
「安倍首相、米米雇用創出策提示」
  日本ではなくアメリカのことですか……国民
  安倍首相殿
▲ワード2016は画面全体が灰色がかって、実に見にくい。我慢できなくなってネット情報でうろ覚えでやったら変な色合いになった。私が運が悪いのだろうか、ネット情報で試してうまく行くのは数パーセント。多くはウィンドウズ7以前の古い情報が多い。
 結局、ワードで「ファイル」→「オプション」→「Microsoft Officeのユーザー設定」の「Officeのテーマ」を「白」を選択した。お蔭でエクセルまで「白」になった。余計なお世話である。もう少し色をつけろ!!
▲研究作業は今日は凡ミスを発見して中断。それは地名を書き込んで行く中で発見した。問題はその訂正である。既にして終っている1877年5月15日から9月30日までに41件ある。一つずつ見つけて訂正する作業である。いずれ他のミスも見つかるからその時についでにしようかと思ったりしている。また変なミスも発見した。これはスキャナー君のミスだが、「朗渚六七年」とあった。原本を見たら「明治六七年」とあった。
※画像は加治木精矛クワシボコ神社参道の早咲きの桜、数輪の一つ。

★またグーグルストリートビューに頼った2017年02月10日 02:53:14

県道50新町橋(Google Earth)
▲研究作業中に参った。熊本市川尻の加勢川にある県道50号に架かる橋の名が分らない。地理院電子地図にもほかネット地図にも出ていない。そこでグーグルストリートビューの出番である。すると橋口の画像があり、回転すると「しんまちはし」のプレートがあった。画像の四角の部分。
 以下の関係資料では2行目の「大橋」に相当する。
●依て憩処するに遑あらず、遽に飯を喫して川尻(従宇土二里)に向ひ疾走し緑川の擱橋を渡り、尋て市街に接する大橋(上流は擱橋の流と合す)に到れば、我先鋒隊の者三十余名左袖に白布を着て徽章とし、橋頭に在て通行者を誰何し警守す、既に街に入れば家々燈を軒詹(担)(先か)に張て光明白日の如く兵隊塡咽する忙し、我隊の寓舎に就き徽章を着け軽装す、人々多くは外套を截断して着す、余か輩は隊長の令に応し其寓に更直し寝に就かず●時に余該地に着する以前より西に当て炮声雷の如し、乃先着者に問て曰く、彼炮声何そや、曰く、子未た聞ずや、熊基台兵将に我兵を拒遏せんとし(籠城の台兵巡査凡そ二千余名と云ふ)、曩に城外の士民に令して曰く、不日薩兵至らは暴戻残酷を為すや必せり、乃て三熕を報するあらば速に逃避せよと、既に去る十八日正午時之を報して城外を火燒し、城の四周に地雷を設くる八十余所なりと、且我梶木(加治木)隊の来て此に屯するや、今午後五時台の候兵十余名潜に来て市街を焼んとす、諜して之を知り将に縛せんとす、彼即ち銃を発す、我兵抜刀追躡し其一名を斫殺し二名を縛し余に悉く逃走せり、而して軍艦一隻海岸一里に来り、軽舸を以て兵を卸さんとす、梶木隊之を防撃し敢て上陸するを得す(梶木隊二名傷くと云)、艦上より砲撃する斯の如しと云ふ●午前三時過呼集喇叭を報す、隊長堀氏等人員を点検し行伍を整列し令して曰く、明旦熊城の石壁を攀登の議決せり、各努力せよと、余彼此意外の事を聞し驚愕すれども、是に至ては慮を回らすを得ず、唯惘然之を頷するのみ※擱橋(緑川橋、熊本市南区富合町杉島、国道3・緑川)※大橋(新町橋、熊本市南区川尻、県道50・加勢川)【20050019】:(8)

★「四方地原」は熊本市西区四方池公園付近か2017年02月15日 00:10:02

▲以下の資料(1877年2月21日)にはまだ「四方地原」は「不明」としてある。
●人吉を経て同月廿一日肥後国熊本へ着す、本日同所の四方地原に壱炮隊を以て炮台を築き、城中へ炮撃する事四五日※四方地原(不明、熊本市西区横手2丁目か)
◎どうしても解明したくてネット情報を辿る中で、Mapionに「四方池公園」が出てきた。そこで平凡社歴史地名大系でさらに確認する。すると「横手村」の中の小村で元々は「世持村」、これを「四方池村」ともいうとある。そこで最後はグーグルストリートビューの出番である。上空から目星を付けて人型の記号(ペグマンというそうだ)を下ろす。そして黄色い線を移動してその場所に着いた。「四方池公園」のプレートがあった。住宅街の小さな公園である。読みは「よもちこうえん」であろう。公園は西区島崎3丁目だが、公園から数十m東は横手5丁目である。昔は「横手村」であったと思われる。「四方池村」は以後官軍側資料に「四方地」・「四方地村」と数回登場する。そしてここの付近であろうが、「四方地原」にあった砲台を破砕したとする。
 なおこの日は西区新松尾橋、中央区画図橋の確認にペグマンが活躍してくれた。
※画像は「四方池公園」。グーグルの上空からの画像で公園付近を見たら、家々の屋根に青いシートがいっぱい張ってあった。

★研究ミス修正と歩き報告2017年02月24日 03:13:44

郷田(ごうだ)の滝、加治木日木山川
▲「西南之役懲役人筆記」(鹿児島県公刊資料西南戦争)から作成した薩軍二番大隊十番小隊に属する2名の記録の訂正に追われた2日間だった。
●今回の事例
①Aの資料
◎2月23日
4.猶進んて植木を乗取を聞き、衆益憤励し又城に迫ること三昼夜にして我隊山鹿進軍の令を受け、
◎2月24日
5.廿四日山鹿に赴く、到れは則桐野利秋之を高瀬口の応援に備ふ、
②Bのの資料
◎2月24日
4.衆益憤励し亦城に迫る事三昼夜及んて我隊山鹿進軍の令を受け、廿四日山鹿に赴く、到れば則ち桐野利秋之を高瀬口の応援に備ふ、
●私の間違いポイント
Aの資料で2日に分けてある(番号4と5)文が、②Bの資料では1日分(番号4)として記されている。それは「三昼夜」とある部分をAでは重視し、Bでは軽視したことにある。
Aの記録はほかにもミスが重なり、一連番号は2ずつズレた。結果ほぼ3分の2が修正対象。Bの記録修正作業はここで1行増、のちにミスがみつかり1行減できたので一定期間だけの番号修正。結局2日がかりで作業した。
▲土曜日「町めぐり協議会」の行事に参加した。最初に険しい山道をいただいた竹杖に頼って登った。山頂間近に加治木石(二瀬戸フタセド石)切り出し現場があった。昭和の時代まで続いたとのことで、機械を使い、ロープウエイで下していたとのことで、その痕跡が残されていた。石は全国的な商圏を持っていたという。下ってから日木山川沿いを上流へ。郷田ゴウダの滝を初めて滝下から見上げた(写真)。この日の歩きですっかり疲れ果て、足腰の痛みが2日間、おまけに。腹具合までおかしくなった。
老兵は消え去るのみ。