★研究作業から2017年03月25日 01:29:01

▲山縣参軍は常日頃、弾薬の確保に苦慮し、東京へはその追加を求め、配下の部隊にはその節約を求めた。「征西戦記稿」には「巻24弾薬消費」の項がある。以下はそれから抜粋してある。
●3月24日(3月20日田原坂が陥落する)
諸旅団に告諭して曰く
「開戦以来既に1月を経過し、費す所の弾薬日に数十万の多きに至る、而して平定の日未だ予期す可からず、猶ほ数百万の費耗を要するも亦知る可からず」、「後装銃弾薬は一日の製造4万発にして、既に貯蔵せる所の者は東京より博多に至るまでの間合計1330万発
●3月31日(官軍南方軍が松橋を取る)
大久保・伊藤両参議及び鳥尾中将に報じて曰く
「聞く、印度地方屯在の英国兵は後装銃を携帯すと、其弾薬を購買する能はざるか且つ香港・上海等へも着手ありたし、此地現在の弾薬僅に13・14日を支ふ可きのみ、一に尽力を祈む」と
●4月4日(官軍南方軍の後方八代に西郷軍が攻め入る)
村田少佐の報至る左の如し
「後装銃弾薬400万発、31日を以て福岡に送れり、猶ほ341万発神戸・大阪に在り将さに次船を以て送んとす、又東京に100万発、仙台・青森の間に凡そ300万発あり、日ならず大阪に抵るべし、是の他即今日々製する所を除くの外後装銃弾薬なし、夜比耳銃3000挺弾薬200万発は亦次船に送る可し、又夜比耳銃5000挺弾薬100万発東京砲兵本廠に在り、亦不日大阪に至る可し、經芳は次船を以て此弾薬と共に帰るべし」
●4月13日(翌14日に熊本城に官軍南方軍が、15日北方軍も着く)
大阪より報あり曰く
「後装銃弾薬260万発は凡そ20日以内、500万発は70日以内、1000万発は100日内に支那より長崎に達すべしと東京より報知あり、其他各種現在の小銃1挺毎に弾薬700~800発総計15万発は方さに準備せり」と
▲水曜日の午後の散歩(自転車)は「七つ星」の運行に合わせて家を出る時がある。ただこの日は少し手間取り、出かけるのが遅くなった。姶良市重富の私の撮影ポイントに後200mとなった時、近くの踏切の警報が鳴り始めた。そこで急いだのだが、後100mになった時、あきらめてカメラを向けると、もうそこに来ていた。私には昔からこういう風に、少し時間がズレルようなジンクスが身に付いている。画像はその失敗作。