★研究作業から2017年04月01日 01:22:52

▲以下は「征西戦記稿」より。西南戦争の始まりからを川尻在住の高木蘇平太の証言としてまとめてある。その実態を示している。「是日(1877年4月19日)」以前4月14日に熊本城攻囲線が崩れている。
●是日(1877年4月19日)、衝背軍川尻本営に於て属官加納通廣・片岡新・森長保3名、雇写字生高木某(蘇平太、熊本県士族川尻住)に賊軍川尻在陣の顛末を問ふ、其対左の如し
●初め賊軍川尻に至るや加治木の兵3大隊(二百名を一小隊とす)先鋒として2月19日川尻に至れり、翌20日6大隊至り、一軍は海岸に出、一軍は熊本城に進めり、小銃城を攻るに利あらず、五六日を経て大砲至る、乃ち花岡山より攻撃すれども利あらず、因て更に攻城の大砲を鹿児島に取る、其砲20日許を経て至る、衆大に喜び花岡山に架し頻りに発射すれども城中依然たり、因て迎町に転じ之を攻むれども利あらず
●故に長圍して粮食の竭るを待つに植木口の官軍漸次進入、田原坂の戦大に苦めり、皆曰く「鎮台兵は与し易し、近衛兵は善く戦ふ、畏るべし、又巡査は刀を帯び善く接戦す」と
●一時弾薬乏しくして鹿児島より送り来るを待てり、又貨幣盡きて使を薩へ遣し之を取れり、粮米は八代・鏡等に於て米1万苞を得、缺乏の虞なかりしと云ふ
●又官軍日奈久に上陸するに及て急報の徃復織るが如し、即夜2小隊出兵、又他よりも来会し此地に留らず進発せり
●松橋の敗れるや官軍三丁橋(三十丁橋)辺に集合して鯨波を発し、忽ち川の左右に散布したるを見て、皆謂らく「下流太郎兵衛橋を渉り来る」と大に怖て潰走し、川尻復た一賊なきに至れり、是時に方り川尻鎮撫隊に番兵巡視等を依頼せしに肯ぜず
●病院110余戸あり、番号を附し識別し易からしむ、一戸の患者多きは150名、少きも20名を下らず、試に之を平均し一戸30名として算すれば無慮4000人に近しと云ふ、別に截断繃帯所あり、患者凡そ40名余、此時軽傷の者は歩行せしめ、重傷歩する能はざるは役夫をして之を運搬せしめ、其歩行せし者100余名は行く事半里余にして民家に宿し、翌日1名金1円の賃を以て舟を買ひ木山に赴けり、若し是日官軍長駆せば熊本城に至る事容易なりしならん
●又一両日を経て賊兵再び来り六彌太渡に交戦し、爾後連戦、遂に敗走するに及て、兵食炊場を放火し延焼6戸に及べり
●賊兵川尻に埋葬する者900余名、其田原坂の戦死は植木に埋葬し、植木の戦死は熊本に埋葬し、田原坂・植木の負傷者途に死し或は治療中に死せし者皆川尻に埋葬す、其墓標の石を以てする者は或は死者所有金を以てし、或は朋友・親族等より之を建たり【30022295●巻22衝背軍戦記】
▲探したら私が歩いた記録が出て来た。私の現職時代の後半のもので、鹿児島市の「私学校」跡から、熊本市の川尻まで歩いた記録である。日数では6日間であるが、平成10年7月から平成11年4月までの間である。
その最後は熊本県八代市から熊本市川尻までの記録である(画像)。私が参考にしたのは西郷隆盛が歩いた道筋に沿ったルートである。当時は知識がなかったので、主に国道を歩いた。

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