★研究作業報告&久しぶりの七つ星2017年06月09日 20:30:49

▲以下は1877年4月19日、官軍側が行った聞き取り調査の内容である。熊本の戦いの様相が分る。文の区切りは私がした。なお関係地名はこの日この記録以前に並べたものは重複するので略してあるが、ほとんどが並べてあると思う。中には地元の者が間違う筈のない地名がある。官軍側記述者のミスであろう。
●是日、衝背軍川尻本営に於て属官加納通廣・片岡新・森長保3名、雇写字生高木某(蘇平太○熊本県士族川尻住)に賊軍川尻在陣の顛末を問ふ、其対左の如し
●初め賊軍川尻に至るや加治木の兵3大隊(二百名を一小隊とす)先鋒として2月19日川尻に至れり、翌20日6大隊至り、一軍は海岸に出、一軍は熊本城に進めり、小銃城を攻るに利あらず、五六日を経て大砲至る、乃ち花岡山より攻撃すれども利あらず、因て更に攻城の大砲を鹿児島に取る、其砲20日許を経て至る、衆大に喜び花岡山に架し頻りに発射すれども城中依然たり、因て迎町に転じ之を攻むれども利あらず
●故に長圍して粮食の竭るを待つに植木口の官軍漸次進入、田原坂の戦大に苦めり、皆曰く「鎮台兵は与し易し、近衛兵は善く戦ふ、畏るべし、又巡査は刀を帯び善く接戦す」と
●一時弾薬乏しくして鹿児島より送り来るを待てり、又貨幣盡きて使を薩へ遣し之を取れり、粮米は八代・鏡等に於て米1万苞を得、缺乏の虞なかりしと云ふ
●又官軍日奈久に上陸するに及て急報の徃復織るが如し、即夜2小隊出兵、又他よりも来会し此地に留らず進発せり
●松橋の敗れるや官軍三丁橋辺に集合して鯨波を発し、忽ち川の左右に散布したるを見て、皆謂らく「下流太郎兵衛橋を渉り来る」と大に怖て潰走し、川尻復た一賊なきに至れり、是時に方り川尻鎮撫隊に番兵巡視等を依頼せしに肯ぜず
●病院110余戸あり、番号を附し識別し易からしむ、一戸の患者多きは150名、少きも20名を下らず、試に之を平均し一戸30名として算すれば無慮4000人に近しと云ふ、別に截断繃帯所あり、患者凡そ40名余、此時軽傷の者は歩行せしめ、重傷歩する能はざるは役夫をして之を運搬せしめ、其歩行せし者100余名は行く事半里余にして民家に宿し、翌日1名金1円の賃を以て舟を買ひ木山に赴けり、若し是日官軍長駆せば熊本城に至る事容易なりしならん
●又一両日を経て賊兵再び来り六彌太渡に交戦し、爾後連戦、遂に敗走するに及て、兵食炊場を放火し延焼6戸に及べり
●賊兵川尻に埋葬する者900余名、其田原坂の戦死は植木に埋葬し、植木の戦死は熊本に埋葬し、田原坂・植木の負傷者途に死し或は治療中に死せし者皆川尻に埋葬す、其墓標の石を以てする者は或は死者所有金を以てし、或は朋友・親族等より之を建たり※川尻(熊本市南区川尻、県道50・加勢川)※加治木(旧加治木町、国道10・網掛川)※花岡山(132m、熊本市西区春日4丁目、花岡山公園)※迎町(ムカエマチ、熊本市中央区迎町、国道3・長六チョウロク橋・白川)※植木口(旧植木町植木、国道3・県道30・329)※田原坂(タバルザカ、旧植木町豊岡、田原坂公園)※鏡(カガミ、旧鏡町鏡村、県道14・42・氷川・鏡川)※日奈久(八代市日奈久中町、国道3・日奈久港・日奈久温泉)※松橋(旧松橋町松橋、国道268・県道14・161・浅川)※三丁橋(三十丁橋・三十町橋サンジツチョウ、宇土市三拾サンジツ町、三十町川の土橋)※太郎兵衛橋(太郎兵衛渡し跡、宇土市馬之瀬町、浜戸ハマド川、近くに太郎兵衛橋がある)※六弥太渡(熊本市南区富合町杉島~浜戸ハマド川~富合町廻江マイノエ、六弥太橋・六弥太橋バス停)※植木(旧植木町植木、国道3・県道30・329)【30022295●巻22衝背軍戦記】
▲画像は隼人駅で乗客を迎えるため、姶良市の椋鳩十文学記念館前を走る七つ星。写真後方の岩山は砂利を作るため、採掘され削られている。