★不明地名「下川原」一件2018年02月02日 23:30:12

▲「下川原」は以下の資料にある。既に修正してある。
●十三日雪(旧正月元)●今日下川原一小隊調練の事※下川原(杢ノ瀬ムクノセ、旧姶良町船津フナツ、蒲生川・山田川合流点の河原)【20035007】:(1)
◎当初は私は「下川原(不明)」としていた。不親切である。私は当初から大体の場所は知っていたから、少なくとも「下川原(不明、旧姶良町)」とでもすべきであった。そこは東からの山田川と西からの蒲生川が合流する地点で、当時は両川が作った広い川原であったと考える。
▲実は私がここを知っていたのは以下の3資料による。
●資料1(「御廻文留帳(巡見)嘉永六年」)
(略) 溝邊 加治木 帖佐 志らの山田 蒲生 鹿児島郡吉田 重富
右者此節就御巡見来ル廿四日椋之瀬川原ニおひて御備組調練被仰付(略)※「志らの」は「始羅の」であり、「姶良郡の」と読み替える。
●資料2(「鹿児島県史料斉彬公史料第4巻」)
(略)二十四日、(略)椋瀬磧乃臨御桟鋪、時所聚諸郷及大河平孫八郎隆慶等、各整隊伍進退調錬以備英覧(略)
●資料3(「鹿児島県史料斉彬公史料第1巻」)
(略)十二月二十四日、帖佐郷椋乃瀬川原ニ於テ、十八箇外城ノ大操練ヲ覧玉フ(略)
◎資料1は私が蒲生文書講読会に参加していた頃会員と読んだ資料の一部である。この「廻文(カイブン)」は藩から各郷へ送られる公文であり、各郷はこのように郷内用に書留め、次の郷へ廻す。資料2は島津斉彬の大隅巡見の記事である。斉彬は12月23日加治木に宿泊、そして24日は各郷郷士を集めて帖佐の「椋瀬磧」で行われた「調練」を見分した。資料1では「椋之瀬」、資料3では「椋乃瀬」となっている。読みはいずれも「ムクノセ」である。そして「姶良町郷土誌」には、帖佐の船津の小字(コアザ)名として「杢ノ瀬ムクノセ」と記されている。資料1の他の箇所で参加者は22郷とあり、現在の宮崎県の一部も含まれている。
※寒さに加え、雨もあり、現地の写真撮影をあきらめ、Googleマップの画像使用した。