★ミス訂正が消えていた2018年08月16日 04:29:06

▲ミス訂正は確かに済ませた。そして確実に保存した。ところが保存した筈のデータが消えた。おかしいと思い、作成したマウスコンピューター機を起動して確かめる。外付け2・本体2・ドロップボックス、一番確実な8GBのUSB、いずれにも痕跡がない。考えられるのはただ1つ。本体の作業専用フォルダーに確かに保存した。ところが私は8GBのUSBの上で作成したとカン違いした。そこでそれを作業専用フォルダーへ逆コピーしたのではないか。2つの作業の時間差が間違いを生じさせたと考える。
しかし、どこかWindows10を疑っている。
▲ミスの元々はある人物の所属部隊の変遷である。彼は人吉へ引揚げの時点では「振武一番中隊」で、まもなく「振武十三番中隊」の小隊長に昇格、さらに後には「雷撃八番中隊」に移動する。薩軍は人材不足から、かかる形で抜擢するのでこのこと自体は珍しくない。私の資料は、戦地別・部隊別に構成されている。だから部隊が違うと全ての記録を移動させねばならない。彼が「振武一番中隊」・「振武十三番中隊」なら「鹿児島戦」、「雷撃八番中隊」なら「水俣・大口戦」で、邊見十郎太の部下として、後には宮崎・延岡の諸戦において戦い、8月負傷・入院する。
◎彼の入院中の8月17日の記録は、
「39.爰に三昼夜、粮既に竭んとするに至り熊田口の熊本兵総て降伏するに及ひ我兵も多降る」
◎当然彼はここで降服するはずだったが、8月18日の記録は、
「40.余者猶西郷等此極に至て未た従容たるを以て病院を脱し、耳を傾け之を窺ふ所に十七日午後十二時(18日午前0時)に至て忽ち装軍の令あり、之れ則ち如何なる妙計乎あると従軍し、転倒匍匐して吶喊呼譟可愛ノ嶽の官塁に迫るに、官兵大に狼狽、偏屨を着し胴乱を肩にし、或は長官を助けて遂に塁を棄て山中に潰走す、我兵勝利、銃器・弾薬を得る無数、則ち之を収めて昼夜疾行」
◎彼は西郷と共に鹿児島へ向う。しかし9月1日の鹿児島城山入り目前に、元々の傷が癒えてなかったので同行をあきらめて自宅へ帰ることにした。彼の「西南之役懲役人筆記」の最後の記録は、
「50.余は固より両所の重疵あるに依り歩行自在を得す、潜に家に帰て療養せり、依て爾後戦状を詳にせす」
※文章前数字は、資料分断した私が付与したもの。
▲画像は霧島市溝辺の県道40と55の交叉点、県道40を直進すれば鹿児島空港へ。県道55は左は溝辺、右は加治木へ、溝辺は1877年8月31日の薩軍・官軍の衝突した所である。

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