★研究作業から&この夏最後のセミ2018年09月01日 03:58:54

▲以下は1877年5月15日の「水俣・大口戦」関係資料から。地名説明は略した。
①川路少将水俣より雨を冒して山縣参軍の営に至り援兵を請ふ、参軍の曰く「方今四方の警報織るが如し、諸兵一も余す所なし、故に已むを得ずんば、其右翼を退けて左翼に収縮すべし、援兵に至ては一人も出すを得ず」と、因て攻守注意の要領を痛告し、大に激励せり【30035054●巻35佐敷水俣口戦記】
※10日に邊見十郎太や熊本隊等の大反撃を受け、大口・山野方面を撤退した官軍別働第三旅団の川路少将は、この日山縣参軍から支援を断られた。
②15日山縣参軍の電報少将に八代に至る、左の如し「川路少将、余が営に来り2大隊の援兵を水俣口に出さん事を乞ふ、余之を許さず、已む事なくんば、戦線を収縮すべきを令せり、卿其れ此意を領し且つ之を三浦少将に報ぜよ」【30033099●巻33人吉口戦記】
※山縣参軍は川路の軍の苦境を山田少将(別働第二旅団)と三浦少将(第三旅団)に報告した。
③五木越道は、山川中佐八ツ原山の容易に取るべからざるを料り、田中少佐をして五箇庄より進み、梶原を撃ち以て賊背に出しめんと欲す、議協はずして止む、因て更に湯治を攻めんと欲し、少将(山田)に開陳す
④少将復書する左の如し「湯治は速に撃たざるべからずと雖も、熊本鎮台兵の那須越に向ふもの未だ進撃を行はず、余が胸算少しく齟齬す、乃ち先ず中央線(中村尚武の部下)を進めて平瀬・折立及び仰烏帽子峠を占め、以て今村より榎峠に連絡し、然る後卿が部下と中央兵と連合し、中央兵平瀬を撃つの機に乗じて卿が兵は国見・鷹巣2山を奪ひ、遂に湯治に進まば必ず捷たん、然れども我軍湯治に進むときは賊も亦殊死防戦奇策を運んで我に応ぜん、故に我先ず後図をなし策略密ならざる可からず、夫の始計熟せずして敗を取り事に臨み急に援兵を乞ふが如きは拙劣甚しと謂ふ可し、卿其れ徐に之を図れ、又入鴨・梶原附近の地理を按撿せよ」
※③の山川中佐の積極策に対しての山田少将の返事が④である。私がニヤリとしたのは、後半の「夫の始計熟せずして敗を取り事に臨み急に援兵を乞ふが如きは拙劣甚しと謂ふ可し」の部分である。十分な準備もせずに事を急いで、失敗したからと急に助けを求めるのは「拙劣」と断じている。これを私が本当は川路へ言いたかったのではと思うのは私のヒガ目か。
▲画像はセミ。今年最後の姿かも。