★研究作業再開す2019年01月11日 19:12:28

都農町報恩寺前(グーグルマップで作成)
▲正月早々自宅の2つの工事があり、それも終って、ようやく落ち着きを取り戻した。そして昨年12月末までに終るはずだった「1877年7月31日」の部分の修正作業も終った。いよいよ2019年の作業が始まる。当面は「1877年9月30日」部分までの作業が続く。何とか3月中には終りたいが、ムリだろうな。
▲1877年7月31日の宮崎県人物(一般・非兵士)の日記から。
●31日晴、西郷隆盛枡屋に1泊、これまで止宿の者は皆脇宿に移し、かや毛の犬2疋引き駕は澁紙包にて玄関より直ちに上の床脇まで舁ぎ入れ、両脇には兵士20人程列座、通い口には屏風を立て、一向人に姿を見せず、これが正真の西郷なるやは知れず、兼て西郷は犬を愛せると聞及びけるので西郷ならんと推したるなり
◎書いてある内容はこの日の特例ではなく、どこでもこのようにしていたようである。
西郷が宿泊した「枡屋」は現在は宮崎県都農町川北の報恩寺(浄土真宗本願寺派)の建物(画像)だという。実は画像の道は旧道(旧国道10と考える)で、私は2006年ここの前の道を歩いている。この道の先に都農神社がある。当時写真を撮りながら歩いていたのだが、確かめたところでは何も写っていなかった。
ところで西郷隆盛護衛隊の人物の日記にはそれらしい記事はない。多分彼は鹿児島派遣の時点から別行動を続けていたのであろう。その日記は以下の通りである。
●同31日晴、今日午前10時頃柏田村と云う所にて戦破れ、旧佐土原(藩)の広瀬町へ引揚げ、自身共は当所田中村と云う所へ漸時相休み、それより高鍋城下へ着1泊、尤も自身は遠矢氏と当地川端まで散兵探方として参り、午後11時頃右宿へ着す、同隊狙撃隊へ当場所にて逢い、かつ豊後地より応援として1中隊当所へ着し、追々外にも援兵参るつもりの由
※柏田村(宮崎市瓜生野ウリュウノ、県道9・26・大淀川)
※広瀬町(旧佐土原町広瀬、県道326・石崎川)
※田中村(田中、旧佐土原町上田島、県道44・326)
※高鍋(高鍋町高鍋、国道10・県道19・24・44・小丸川)
◎この日記には重要な箇所がある。それは「かつ豊後地」以降の文である。宮崎危うしと大分県にいた奇兵の部隊の一部が応援に南下して来ていたことを記している。

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