★研究作業報告2019年03月01日 01:30:47

▲終にその日が来た。1877年9月24日朝戦いは終った。官軍記録(「征西戦記稿」)は以下のように記す。
●時已に至り残月西に傾き露華照映せり、各旅団攻撃兵は各自の部署に随ひ、第一・第二・別働第二旅団は城山東北隅突出の賊塁に、別働第一旅団・熊本鎮台は西面より城山中央隆盛院迫に、第四旅団は北面より岩崎谷に、第三旅団・新撰旅団は東南面より城山正面に向ひ、多くは既に密に其哨兵線外隠蔽の地に潜出し、号砲3声同時斉しく奮進す、此時預め攻撃に備ふる軍艦清輝号より克虜伯砲1門を上ノ原に架し賊の要害たる東北隅突出の一大塁を撃ち以て声援を為す、而して新撰旅団の兵は前面右翼より城山の前部に上り、第一・第二旅団の兵は左右翼及び中央より、三面並進み、賊中第一の要害東北隅突出の2大塁を連陥し、別働第一旅団・熊本鎮台の兵は隆盛院迫に上り、第三旅団の兵は城山正面左翼より島津邸に入り火を放ち、照国神社背後の賊塁に迫り、第四旅団の兵は岩崎谷左辺の山腰より進み其援隊は岩崎谷口を扼し、各方面の兵合して岩崎谷の賊拠を衝突す、之を囊に譬ふれば他の三方面の兵は其底を圧迫し第四旅団の兵は其口を括する者の如し
※城山(鹿児島市城山町、城山展望台)
※突出の賊塁(官軍側の呼称、南九州医療センターの北側高位部、突出砲塁・台場)
※隆盛院迫(廃寺隆盛院脇の坂、鹿児島市草牟田1丁目30、草牟田墓地東側)
※岩崎谷(鹿児島市城山町、西郷隆盛洞窟)
※上ノ原(ウエノハラ、鹿児島市玉里町、上ノ原台地)
※島津邸(島津頼母邸、鹿児島市長田町)
※照国神社(テルクニ、鹿児島市照国町19-35、祭神11代島津齊彬)
※岩崎谷口(岩崎谷、鹿児島市城山町、西郷隆盛終えんの地)
●賊軍は三面の圧迫に堪へずして遂に谷口の一塁に聚る、第四旅団の兵銃槍突貫し賊60余人を一塁中に攢刺して遺すなし、塁を距る10余歩一肥大の死屍を得たり、之を撿するに右腕旧刀瘢あるを以て其昔は元勲にして今は逆賊の巨魁たる西郷隆盛なる事を知れり、而して其頭顱を得ず、百方捜索し一賊の重創を負ふ者を捕へ、之を訊鞠し始て隆盛が此朝銃創を負ひ、別府新助(晉介)之を刎ね地中に埋蔵せしを知り、堀て之を砂泥中に得たり、又塁中積屍を照撿して、桐野・村田・邊見・池上以下賊中屈指の人物10余人を得たり、前日放還せし所の山野田一輔の屍も亦在り、此余各旅団の斬獲無慮500~600、隊長以上の者頗る多し、野村忍助・別府九郎は熊本鎮台に、阪田諸潔は第四旅団に降る、余賊復た一人を遺さず
◎前夜から戦闘配置に進み、待機していた官軍は夜明け前一斉に攻撃に掛かる。戦いは朝7時には終った。西郷軍側記録(日記)には岩崎病院3つの内2つでは全員刺殺、1つは助けられた。もちろん日記の主は助かった。ただ、そのまま官軍の治療援助を受けたのはよかったが、たくさんの見物人が来て途惑ったようである。画像は岩崎谷、西郷隆盛終えんの地(グーグルマップ)。実地は画像前方の車付近と聞いた。