★昨日から悩まされたのは壁紙2020年06月04日 11:24:15

▲何故か急に壁紙が思うようにならず、マイクロソフトのなすがままになった。
①いつものように壁紙を「単色」(黒)に替える
②するとまもなく、音もなく静かに「画像」に替わる。その画像が起動時のきれいな風景写真ならまだしも、人物2人、人物1人、どこかの演奏風景(拡大されてボケる)、最後はビートルズの4人。
③そこで①に戻す。ところが直ぐにまたビートルズの4人が現れる。それも白黒写真である。そういえば最初の頃に出ていた小澤征爾氏の白黒写真は出てこなくなった。
④例によってネット情報を求めて「壁紙が勝手に変わる」と打ち込んでみる。マイクロソフトのページで回答があるが、何の足しにもならない。まあいつもそうだ。書く人だけが分かっているのだ。
⑤一応確かめると現在は私が指定したような画面になっている。
その最後の対策は、
●「画像」に切り替わるのならそこに自分の画像を入れればいいはずだ。
●自分の画像を次々入れ込んで、ビートルズ様まで全て枠内から追い払った。
●そしてその枠の一番最初(左側)の写真が納まっている。何故か画像の下部が切れた形だが満足である(本日の画像)
▲29日のブログの日誌の最後の部分の一部。文章は日付単位に区切った。また■は文字1字不明なので推定してかな混じりで( )にしてある。 
95.七月廿七、八日比大警部巡回ニテ、口供等取調ベシニ、其時病気故(人名A)ヲ以テ代首ス、
96.然ルニ八月八日鹿児島九州臨時裁判所出張所ヨリ、正副戸長ヲ初メ帰順セシ者都合百拾八名御用相達シ、七日出県、翌八日午前八時出頭セシニ口供等取調ベノ上拇印イタシ、兵士ハ直チニ放免トナリ、伍長以上正副戸長ハ旧城内謹慎申付ケラレ旧奥女中部屋跡ヘマカリアルニ
97.同廿一日裁判所ヨリ三官以上二拾壱名、吾郷ヨリ田中伝左エ門、(人名B)、我レ三名呼出シテ一時間、長崎九州臨時裁判所へ差廻ハスニツキ、其通リ相心得ベキ旨達シテ
98.翌廿二日午前十二時比前ノ浜ヨリ迎陽丸へ乗船、午後四時出帆、
99.翌廿三日午後十二時比長崎着港ノ上、直チニ上陸、第二仮監獄入監マカリアリシニ
100.九月十四日同所九州臨時裁判所ヨリ百六拾九名呼出シテ、ソレゾレ士官トナリ官軍ニ抗敵シ■■■■(たるによ)リ年限ノ区別■■■(一年の)懲役ノ処刑トナリ、即日同■■■■(迎陽丸に)一昼夜滞船シ
101.同十九日横浜港へ着港、上陸ノ上同所警視分署へ一泊
102.翌廿日同署ニテ百六拾九名ノ内五拾九名■■■■(やまなし)県へ、五拾七名ヲ群馬県へ、五拾三名埼玉県へ、分配セラレテ、午前十一時ヨリ同所ヲ発シ、汽車ニテ東京新橋マデ着シ、田中伝左エ門ハ二ケ年懲役ニテ山梨県ノ列ニアリテ、此所ニテ別ル、我レハ一ケ年ニテ埼玉県ノ列ニテ、同所ヲ午後三時比発足シ、東京府下板橋ト云ウ駅(宿場の意味)ニ到リテ一泊
103.翌廿一日午後四時比埼玉県浦和懲役場ニ着ス、
※文中の「田中伝(傳)左エ門」と日記の本人は共に懲役期間中に書かされた「西南之役懲役人筆記」にも名前がある。

★壁紙の正体見たり2020年06月06日 08:41:00

▲前ブログでの壁紙変更の経緯が少し見えてきた。それは作業が一段落してデスクトップ画面を出したら、そこには美人が。但し白黒写真。見覚えがある。すぐ思い出した。イギリスの女優で歌手のジュリー・ロンドン(1926~2000)である。「個人用設定」を開くと私の設定した「背景」の「単色」の黒色画面は「画像」に替えられており、そこに彼女の画像があった。
ここに至ってやっと気が付いた。今まで見た画像は、パソコン作業中聴いている「Grooveミュージック」の1054曲の音楽の関係者の姿だったのだ。だからビートルズも出ていたわけだ。
問題は、「画像」ではなく「単色」の壁紙を選んだのに、何故勝手に「画像」に替え、さらにそれにピッタリの人物の演奏場面や肖像写真があるのか。私の元々のCDにはそのような写真は付帯されていないはず。誰が提供したのか? それとも本当は元々付いていたのか?
ジュリー・ロンドン画像はそのまま置くと次の曲の人物に右へ右へと押し出され、最後は5枚の枠外となって消えることになる。そこで何度か最左翼へ移す作業をしたが、ちょっと見ていない間に消えていた。
かくして今は壁紙はマイクロソフトの支配下にある。時折は「単色」を選ぶという抵抗をするのみ。
▲画像はジュリー・ロンドン。たまたま別な曲名が彼女のものだったので再登場。プリントスクリーンするために邪魔な(?)フォルダー等は前後左右に移動させ、彼女がきれいに出るようにした。画像は前と同じものであった。そしてこの画像は今まで一度も見たことはなく、私にとっては極めて新鮮に感じられた。流れる曲が邦題「縁は異なもの」でなかったのは残念。

★壁紙騒ぎ続き&不明地名調査での新決断2020年06月10日 11:15:57

我が家の庭の蝶
▲これを書く前にGrooveミュージックを起動して、フリオ・イグレシアスを聴き始めた。デスクトップ画面いっぱいに彼の画像が出た。左右2人の人物のうち左側は確かに本人である。右側は分らない。このCDの画像は本人一人の上半身、そして笑顔のカラー写真である。何故その画像でないのか。
▲不明調査にうんざりである。全く手掛かりが掴めない。この数日の経験で1つの確信を得たことがある。それは西郷軍が南方からの政府軍に押されて熊本へ退却し始めるが、その際彼らは旧山城(戦国時代)を利用して抵抗し、官軍側はそれを1つずつ潰して進んだのではないかと。官軍側資料(「征西戦記稿」)は「○○村へ進み、○○山を攻める」という記述をしている。つまり村名と山名(山城跡)が一致する表現方法である。そこで私は想像する。原本編纂時点で山名は不明であり、村名をそのまま山名としたのではと。
まだこれを正解として全ての関係ファイルまで修正したわけではないが、「不明地名調査用」(エクセル)においては以下のようにした。
①原文(「征西戦記稿」、別働第二旅団、3月30日)
▲②諸隊皆勇進す、撰抜隊は曲野山の東麓より進み、曲野村に至て止る、八木少佐・松浦大尉等の部下浦河内の賊塁を抜き且つ其東なる山丘の賊を撃て之を破る、然れども本道の賊は久具村の北を流るる小川を沮し、其橋頭に巨塁を列ね頻りに砲弾を逆射して拒守最も勉む※曲野山(不明、旧松橋町曲野)※曲野村(マガノ、旧松橋町曲野、国道3・266・県道181・明神ミョウジン川・久具クグ川)※浦河内(ウラカワウチ、旧松橋町浦川内、国道218・県道313・大野川)
●現在:※曲野山(不明、旧松橋町曲野)
●修正:※曲野山(道徳山133.2m別名荒平山・微雨山、旧松橋町曲野マガノ)
理由:旧松橋町曲野で一番高い山で熊本へ進軍する方向(北)にある。
②原文(「征西戦記稿」、別働第二旅団、3月30日)
▲④午後6時過ぐるに及び狙撃隊兵若干溝洫の中を匍匐して賊塁に近き銃槍を揮ふて進む、山崎剣を揮ひ衆を励まして本道より突進し砲塁に薄る、兵卒富永万藏先ず賊塁に登る、瀧貞美中尉の1中隊亦その右より進み、我兵斉く進む、賊遂に拒くこと能はず、砲塁を棄て内田山に退く、賊を塁内に殪す事7人、山砲1門及び弾薬小銃10数を獲たり※内田山(不明、旧松橋町内田ウチダ)
●現在:※内田山(不明、旧松橋町内田ウチダ)
●修正:※内田山(白岩山221.2m、旧松橋町内田ウチダ)
理由:松橋町内田で一番高い山で熊本へ進軍する方向(北東)にある。そば(東)に激戦地娑婆神峠がある。

もし旧松橋町(現宇城市松橋町)で、私のCDを配布する機会があれば喜んで反論を受け付け、すぐ修正するつもりである。
私が望む1400余の不明地名解明には実は「全国地名手配」が必要である。
②にある人名「富永万藏」、「瀧貞美」は戦死者名にはない。この日1877年3月30日のこの方面の官軍戦死者は72名。西郷軍側は私のファイルではこの方面戦死はこの日6名、もちろん洩れが多数あり、実態は10倍以上か?。

★不明地名調査でまた成果2020年06月12日 22:27:34

▲以下の通り。①は熊本隊士の記録、②は中津隊士の記録。
①▲明治十年三月丗一日、中津旧藩士増田宋太郎等六拾餘名、慨然兵を挙げ以て薩兵の声援をなさんとす、先是薩兵の熊本を圍むの報あるや、佐賀福岡の士是れに應ずる者多し、(略)、衆大ひに奮激即夜同士を中津豊后町松屋に会す、各刀を佩び銃器を携え集る者六十餘名、豫め數名を分ち廣津、宮永、錆矢堂等の口に要め、諸方に報知する者を捕えしむ、夜将に十二時にならんとす、又數十名を分ちて支庁警察及び諸官員の私宅を襲ふ(略) ※中津豊后町(中津豊後町、中津市中津豊後町、中津豊後町局)※松屋(不明、商店名、中津市中津豊後町)※広津(広津口・渡守口、中津市、県道108・山国川、山国橋)※宮永(ミヤナガ、中津市上カミ宮永・下シモ宮永、国道212・県道101・山国川)※錆矢堂(サビヤドウ、中津市下池永シモイケナガ錆矢堂、国道213・県道108、錆矢堂バス停) (略)
●※松屋(不明、商店名、中津市中津豊後町)
②▲即夜同志を中津豊後町松野屋に会す、刀を佩ひ銃器を携へ集る者殆んと六十余名、実に明治十年第三月三十一日の夜也、予め数名を分ち廣津・宮永・錆矢堂(サビヤドウ)等の口々に要して諸方に報知する者を捕へしむ、夜将に十二時ならんとす、又数十名を分つて支庁・警察及ひ諸官員の私宅を襲ふて、(略) ※中津豊後町(中津豊後町、中津市中津豊後町、中津豊後町局)※松野屋(不明、商店名、中津市中津豊後町)※広津(広津口・渡守口、中津市、県道108・山国川、山国橋)※宮永(ミヤナガ、中津市上カミ宮永・下シモ宮永、国道212・県道101・山国川)※錆矢堂(サビヤドウ、中津市下池永シモイケナガ錆矢堂、国道213・県道108、錆矢堂バス停)
●※松野屋(不明、商店名、中津市中津豊後町)
◎①の「松屋」と②の「松野屋」が同じであるのは分っていた。どちらが正しいかは分からずじまいだった。ネット情報を求めて「中津市 松屋」と「中津市 松野屋」として検索したが、ほぼ何もでない。正解だったのは「増田宋太郎ゆかりの松野屋」としたら大ヒット。「増田宋太郎の足跡を辿る」というページがあった。
地名は次のようになった。
①:※松屋(松野屋マツノヤ、中津市桜町、十字路角・西蓮寺の後ろ・豊後町の東隣)
②:※松野屋(マツノヤ、中津市桜町、十字路角・西蓮寺の後ろ・豊後町の東隣)
つまり、②の「松野屋」が正解だったのだ。
▲そのページには関係箇所が地図上に案内されていたので、グーグルストリートビューで訪問して確認した。なお、増田宋太郎は福沢諭吉と親族関係にあり、その居宅は近くであるという。ページ作成に関係された方々に心から感謝する次第である。私は大分県が一番西南の役研究がなされていると実感している。二番目にとは失礼かもしれないが熊本県、三番以降は触れたくない。
▲画像は不明地名調査用エクセル。●は修正できた数、▲は有力なものの数、✖は検査期日のみの数。

★「征西戦記稿」修正2020年06月17日 09:13:20

▲「征西戦記稿」は国会図書館から1回につき10コマずつダウンロードして、その本文全65巻を、印刷し、それを見ながら1字ずつ丁寧にワード化し、最後はエクセルで仕上げたものである。私が見ながら打ち込む作業だから、ミスも当然起きる。今までもいろいろ見つかり修正した。一部意図的に文字化しなかった部分もある。研究上不要と判断したからだ。作業中には、即断して、「○○の戦」などの題を設定したりして編集しながら進めたから、書き直したとも言える。ただ文字は原文の当時のままの表現を変えることはなかった。私が書き加えた編集部分を含めた全文字数は100万4923語。エクセルのセル数3874。
 そして今回も久しぶりにミスを見つけた。不明地名の並ぶエクセルセル1400余の1つにそれはあった。恐らくこのようなミスはまだあるかも知れないが見直す作業をする余力はない。結果、ほかにエクセル3ファイル、ワード1ファイルを修正し、おまけに不明地名が1個増える結果となった。
●訂正された文章。
第二旅団第十連隊第二大隊は半高山攻撃の左翼と為り、木留口諸隊の連絡を保ち、其第二中隊(石黒少尉)は進て前面の賊塁を抜き、火を生野分村に放て尚ほ進て吉次越の岐路を扼し、其第一中隊(稲葉正輝中尉)は賊を内平山に攻む、賊堅守動かず※生野分村(不明、旧植木町)※内平山(不明、旧植木町)
◎追加した部分
①進て前面の賊塁を抜き、火を生野分村に放て尚ほ進て吉次越の岐路を扼し、其第一中隊(稲葉正輝中尉)
②※生野分村(不明、旧植木町)
▲「征西戦記稿」3874セルの3872番目の文。
◎3872
●西郷軍(1)
▲賊兵は初め二千人を以て一大隊と為し、六大隊を以て熊本に向ふ、熊本縣下の士民之に應する者三千許、其第一(桐野利秋)・第二(篠原國幹)・第三(村田新八)大隊は正面に出、第六大隊は(別府晉介)は専ら熊本を攻撃し、第四(永山彌市)・第五大隊(池上四郎)は其中若干を分て衝背軍に當り、其餘は盡く正面に向ひ、又少しく後れて至りし一大隊(貴嶋清)は田原坂に進み、又賊将邊見十郎太等か中ころ鹿児島に返り新たに募りし千五百人は八代に向ふ、其後阪田諸潔等利秋の命を奉し、薩隅日三州の人民十七より四十に至る者を募て兵と為し、凡そ一萬人を増加す、而して日向地方の士族始より賊に應せし者延岡・高鍋・佐土原・飫肥等無慮数千人、中津の賊の之に投する者百五十人、竹田の賊若干、此他賊中脱逃する者・來降する者凡そ一萬の上に上れり、之を要するに其総数四萬に下らす(画像)