★全ては1地名を表すのだが2020年08月02日 00:18:27

▲以下はその1地名を彼等はどんなに表現しているかの実例である。
①龍野越
一同7月13日本営より指令有、須木郷内山へ曳揚、高山龍野越之嶮地を守兵斥候無怠、四五日過て※内山(旧須木村内山、県道401・浦之名川)※龍野越(不明、立野越か、旧須木村下田か)【11600435】:(1)
②立野越
其後屢戦と雖とも互に勝敗なし、然に七月中旬過飯野口敗軍にて彼の方面の味方野尻の内天ヶ谷と申処迄引退、我守場のみ敵地へ闘入し難守相成候に付、退て須木の内煤原より立野越へ亘り戍を付居候処※野尻(旧野尻町東麓、国道268・県道29・戸崎トサキ川・城之下ジョウノシタ川・岩瀬川)※天ヶ谷(アマガタニ、旧野尻町東麓、国道268)※立野越(龍野越か、不明、旧須木村下田か)【10600422】:(1)
③龍ノ越
翌日午前7時頃より官軍攻撃に味方敗軍する故、奈崎越・龍ノ越の守兵綾・紙屋に引揚く、此時小隊長永嶺信清、分隊長自分炮丸に当り手負す※奈崎越(奈佐木峠、旧須木村奈佐木、県道401)※龍ノ越(龍野越・立野越、不明、旧須木村下田か)※綾(綾町北俣麓、県道26・40・360・綾北川・綾南川・本庄川)※紙屋(旧野尻町紙屋新町・旧町、国道268・神谷川・米川内川)【10100421】:(1)
④立越・立ノ越
時に官兵来りて正義八番中隊・干城遊軍二中隊守る所之立越を攻む、敗して内山村へ退くや否や、我隊は応援として中隊長橋本諒輔自ら率いて之れに趣く、途中敵兵へ行合ひ、午前10時頃より午後2時頃迄烈しく戦半はなるとき、我小隊を分ち敵の背後へ廻り、突出して数十発を打出すに官軍破れて走る、我兵立ノ越台場迄追打大勝利を得たり、夜に入て我隊及ひ正義八番中隊敵塁に対して連戦す、振武十五番中隊は本台名崎越へ帰営守兵をなす※立越(立ノ越・立野越・龍野越か、不明、旧須木村下田か)※内山村(旧須木村内山、県道401・浦之名川)※立ノ越(立越・立野越・龍野越か、不明、旧須木村下田か)※名崎越(奈佐木峠、旧須木村奈佐木、国道265・県道401)【12285032】:(3)
⑤辰ノ越
同廿日辰ノ越へ官軍襲来に付援兵として押出す様指令に依り応援副力候得共、即味方敗走にて其夜日向の綾郷迄引揚※辰ノ越(龍野越・立野越、不明、旧須木村下田か)【10500413】:(1)
◎以上のどれが正解か分からないし、場所も特定できていない。だから「不明」で処理してある。これらの記録から「奈佐木」から「立ノ越」へ、そして「内山」へ。やがて「綾」・「紙屋」へ退いて行くことが分かる。そこで画像の地理院地図のある地名にヒントを得た。「立の尾谷」でる。これは地名ではなく、川の名称(「谷」)と考える。「立の尾」は鹿児島弁では「たっのお」か「たっの」(「尾(お)」は省略される)。
そこで今考慮中の説明1例は、
※立ノ越(立の尾谷を越す坂、旧須木村内山、県道401・立の尾谷)

★地名説明改訂作業報告2020年08月07日 17:27:35

▲未解明地名は1407から少し増減していたが、最終的には「1404」となった。今回の作業で、「ほぼ完成」グループ140、「なお検討が必要」グループ174、「不明地名」グループ1090となった。
①地名はその字句のみ必要なのではなく、その現位置が分からなければ完全とは言えない。だから角川の辞典の後に並ぶ「小字」一覧も完全な参考資料ではない。鹿児島市のように字絵図があれば何とか見当が付く場合があるのだが。
②今回の私の孤独な作業の中で何回も挫折させられたのは「征西戦記稿」という官軍資料に出ている地名である。どこの「大字」・「小字」でもない地名が実に多い。山の名など確かめもせずに地名に「山」と付け足したレベルだ。この本には「地名箋」という参考資料も含まれているが、悪いが役に立たない、それに採録されてすらいない例が多い。何のための資料かとガックリさせられた。
③九州はダム王国(?)ではないだろうか。今のところそのダム下に消えた集落名、大字・小字名など記した資料にアクセスできていない。残念である。
▲作業事例を以下に記す。
◎1877年7月29日
然る処同所綾の雨ガ台の吾か塁官兵に攻破せられ、官兵既に我背に廻るに付同所を退く、其節本営は日向国佐土原に転営、我隊同所河渕に番兵致居候処※綾(綾町北俣麓、県道26・40・360・綾北川・綾南川・本庄川)※雨ガ台(不明、綾町か)【10605412】:(2)
●雨ガ台(天ヶ谷アマガタニ、旧野尻町東麓、国道268)
※「谷」は私の発音では「タイ」。これがヒントとなった。田舎の名も無き小川を「谷川(タイゴ)」と読んでいた。
◎1877年7月29日」
其後高岡郷(鹿児島県下)桑畑村の原にて戦敗れ(日不覚)、綾郷の(同県)川向へ陣を取る(爰にて戦なし)※桑畑村(不明、綾町入野上畑か)【11402617】:(3)
●桑畑村(上畑ウワバタ、綾町入野字上畑、県道26・本庄川)
※これは聞き間違いによると考えた。かかる1字違いは解明作業のヒントになる。
◎1877年8月2日
8月2日、已に黎明忽ち喇叭の声前岸松林の中に起る、我軍之を乱射す、此時官兵已に後林に伏し、吶喊斉く起て我軍を夾撃す、相距る僅に三二十歩、皆謂「別軍誤て我を撃つ」と、疾呼之を制す、而して銃撃益急なり、乃官軍の伏兵たる事を知り、松樹に拠て暫く之を防ぐ、且戦且退く、衆皆守、而して遂保たず事機迫る、濱田泰理来て兵を退かん事を告ぐ、濱砂某戦死す、衆皆塁を棄て四散す、(中略)乃荊棘の中に伏して丸を避けんと欲す、而して銃声耳辺に迫る、又起て畦畝を過ぎ一溝を得(溝底沮洳)、匍匐してゆく、弾丸無数前後を夾み、飛泥面に被る、左折して一松林に入らんとす、官軍亦之に屯す、乃転じて右し荒野を行く事凡五六丁許にして、忽ち一村に出づ(後之を聞けば乃向井原村是也)(下略)※向井原(不明、新富町か)【20036105】:(2)
●向井原(向原ムコウバル、新富町新田ニュウタ、藤山川、向原第1遺跡)
※偶然高速道関係の発掘作業報告書にアクセスできた。ほぼ地図上で確認できたので解明できたとした。
▲画像は蝶。

★新しい作業は平成の歩き旅の記録の訂正2020年08月09日 23:14:15

▲西南の役の未解明1090余にまだ未練は残ったままだ。新しい作業が宮崎までの旅の記録なので、偶然の出会いがあるかもと思いつつ。
 参った。作業に必要な4つのPDFフォルダー(先頭に1・2・3・4が付く)のうち2つが見つからない。「1・2」だ。意外に早く「1」が見つかった。しかし「2」は朝から何度か探してついに、「ここに入力して検索」で大捜索。「4」が見つかっただけ。夜に入り再度捜索開始。作業中のフォルダーの中に変な名前のフォルダーがある。「移動先」で始まるフォルダーだ。ここで思い出した。「3」と「4」を作業するのにジャマだとしてこのフォルダーを作り、この中に「1・2」関係諸資料を入れ込んだのだった。
 かくして作業の体制は出来上がった。
▲西南の役資料は一応終ったので、成果資料を同志諸氏と共有したいと思いDropboxの「共有」を試みた。ネット情報を元に行うが、何とも分かりにくい。いつも思うが、何で人が分かるように記事が書けないのか。結論はいつも同じ。理系人間が記事を書くからだ(持論)。負け惜しみではあるが本当に分からない。「共有」をクリックで終わりにしてくれ。実は数年前遠くの家族に資料を印刷して送る代わりにこれを用いて送付していた。ただどうやってそう出来ていたのか覚えてはいないが。
 代わりにOneDriveで試みた。こっちが「共有」が簡単のような感じがしたが、まだ挑戦はしていない。理由はDropboxの無料容量が2ギガに対し、OneDriveは5ギガだ。だから私はUSBカード代わりに使っているのでこちらは自分用に残して置きたいのだ。Googleのドライブは無料は15ギガでこれはもう10ギガ使っている。これは使いづらい。マイクロソフトを嫌っているような感じである。
▲知人のメールが見事な文字化け。仕方なくメールソフトを使うことになり、Outlookを初めて使用することに。受信・送信情報を打ち込んで何とか使うことに。私はWebメール主義者なのに。次はオンライン会議を作ることに挑戦したい。ひょっとして「共有」は不要に?。
▲未練たらしく1877年7月28日の官軍別働第二旅団の行動記録より。
●是に於て我軍已に悉く漆野・一之瀬・陣之尾の賊を破り、長駆して綾に入り、第四方面兵大平山に拠て哨兵を布く、第二方面兵其左に連絡し川に拠て防守す、第五方面兵又其左三ノ宮より割付山に至るまで守備す※大平山(綾町南俣、県道353・内山川)※三ノ宮(不明、綾町南俣か)
◎「三ノ宮」は私は地名と思い込んでいた。これがネット情報をやり繰りする中で以下の正解を作成できた。
※三ノ宮(三宮ミツノミヤ大明神社、現在は綾神社、綾町南俣)
ほかの地名の説明がないのは、同日付けの先行記録にすでにあるから。
▲画像は私が一番綾に近づいた時の画像(2006年)と2019年のストリートビュー画像との合成。私の旅歩きの3日目に相当する。実は歩いたのは2002年11月19日で、画像は2006年後半を再度歩き直した時のものである。歩き直しは止むを得なかった。当時は情報は道路地図だけであった。

★Picasaの基本画像が正しく並んでいない ▲2020年08月13日 18:23:17

旅歩きで撮りためた4000以上の画像を使って、旅歩きの記録を再確認している。最早自身の歩きの記憶などほぼ確実ではない。
この日は高岡町(現・宮崎市高岡町)から佐土原(現・宮崎市佐土原町)まで歩いたその第3日目の記録を見ていた。そこで記録に不審なところは画像で確認することにした。
●その画像は2002年と2006年の撮影順に整然と並んでいる。私の記憶では画像は全て「名前変更」で最初の画像は、歩いた年=2002」・「月=11」・「日=19」を元に、1番目の画像は「20021119001」で、最後は「20021119067」であるべきだった。
●調べて見ると私は第1日目から5日目まで(鹿児島から宮崎までのコース)では、全て同じ以上のような「名前変更」作業をしていない。第6日目から最後の第46日目の日本橋到着までは、少し表現が違うが基本的にそうなっている。
●宮崎県日向市の細島を目指して歩き始めたのは2000年(第1日目・第2日目)、次は2002年(第3日・第4日目)、さらに2003年(第5日目)と4年掛かっている。そして第6日目から第38日目までは2006年、第39日目から第46日目までが2007年。
●私が初めてデジカメを買ったのは2002年。だから2000年の2回の歩きは画像がない。すべては後年撮影に行ってあつらえたものだ。それなら2002年からはちゃんとできている筈である。
しかし違う。宮崎までの参勤交代路は誰の研究もなく部分的に地元の研究家のみが知っている。それが今のようにネットに出ている時代でもない。私は手探りで歩いた。一番の友は道路地図だ。つまり相当ミスが多く、2006年年末までに再度の歩き、写真撮りまくりに出かけた。これが画像(写真)の混在の原因だ。混在していても今まではPicasaを使用する時には順番に並んでいたから別に不自由はなかった。
画像の順番とPicasaでの順番とは別物と思っていなかったのは大きなカン違いであった。
●結局、今回の第3日目の写真には頭に「1001」からの番号を付けて、名前を書き換え、最後はPicasaの「files」を書き直して何とか上手くおさまった。残り4日分はそのままにしておくつもり。
▲画像はその書き直しの一部、「1001」から「1016」まで。ところで2002年以来のカシオ機は2006年第37日目の旅途中で落下、破損した。キャノン機に替えた。

★続また画像が&私の最古のポータブルHDD(画像)2020年08月21日 23:17:59

▲旅の記録の整理作業は、11日目神戸三宮まで終えた。地名・建物・会社・道路・川と橋の再確認を繰り返している。頼りとなる旅写真にはこの日も振り回された。画像の名前を変えたと思っていたのにそうなっていなかったのだ。前回ブログに書いたあの作業をする破目になった。経験が生きてか割合早く済んだ。今回は画像は日付4ケタの後に4ケタの数字が順序よく並ぶようにした。ミスは下4ケタが「0005-1」とかの形があったことだった。これが「0005」と関係ある画像であれば分かる。実際はこれは確か「0039」と変えることになった。その原因は不明、究明もしない。
▲HDDは37.2GB、現在24GBの空きがある。最新は2018年6月のファイル。2年近く部屋の隅にぶら下がっていた。製品仕様は株式会社バッファローで、MADE IN JAPAN・消費電力2.5W(平均)・DC5V・「注意:ACアダプタは、「AC-DC5」を使用下さい。」となっている。そして「Windows98/98Second Editionをお使いの方へ」とあり、ドライバのインストールが詳しく書かれている。何故か有難いことに全ての字句がきれいに保たれている。当然過去数台のパソコンに繋がれたが、「ドライバのインストール」など以後は一度もなく、無傷・無故障である。それに引き替え外付けHDDは何台壊したか覚えていない。ただの一度の転倒で終わった短命の物もある。だから彼らは今も机にガムテープでくくられている。
これを久しぶりに活用する、先ずは今入っているファイル・フォルダーを先ず「2020年8月18日以前」というフォルダーを作って入れ込んだ。そして最新3ファイルと1フォルダーを入れ込んだ。無事終了。ただご老体のせいかいささか呼吸が荒いようだが。
特徴は電源用のUSBコードが付いていることだ。何故か何年も使用した覚えはないのだが、当初は必ずUSBに繋いだものだ。