★作業のあれこれ2020年12月27日 08:45:32

▲「西南記伝」を相変わらず打ち込み中である。この日も調子よく進んでいた時、参考にしている「征西戦記稿」の私の資料と違う表現が出て来た。例の「モレ」である。
●以下は「征西戦記稿」1877年4月12日、球磨川沿いの戦の部分。
山地中佐乃ち田邊中尉に令し、半中隊を率て之に向はしむ(一に曰く「田邊の一中隊は月岡の隊と交代の為め横石に赴く、途中賊に遇へり」と)、小川村過ぐるや賊兵遶りて村南の山峯に出てて、球摩川を隔て我兵の右側を射る、対戦之に久うして、賊又上宮山山道より繞りて、我左側の後に出づ、田邊中尉兵を分て之に当る、
◎「西南記伝」と比較する中でモレを発見し、修正した部分は、
「村南の山峯に出てて、球摩川を隔て我兵の右側を射る、対戦之に久うして、賊又上宮山山道より繞りて、」
多分「・・・・賊兵繞りて」まで打ち込んで、何かの理由で中断して、「繞りて、我左側‥‥」と再開したのであろう。中断理由は、電話、来客、トイレ、飲み物等のいずれかであろう。
◎このモレ部分に相当する「西南記伝」の一文は、
「村南の峰巒に出で来り、球摩川を隔てて官軍の右側を射撃し、又上宮山山道より繞りて、」
▲「西南記伝」の「薩軍」側の資料は「戦闘手録」であるが、これは「西南之役懲役人筆記」と言われる資料である。この資料と「征西戦記稿」は私の研究作業の柱である。奇しくも100年の歳月を挟んで同じ方向を向いていると感じる。
ただ大きく違うのは、私は資料をほぼそのまま日付単位に並べ直して研究資料として提供していることだ。決して論文を書いているのではない。それに資料としては更に日記・日誌も50余組み入れてあることだ。
▲画像は今の我が家の庭の寒さに苦しんでいるバラ。庭にあった鉢植え物は今広縁に並んでいる。

コメント

トラックバック