★2021年始まる2021年01月08日 21:35:03

▲さすがに元日はパソコンでの作業は止めた。久しぶりにアサヒドライを飲んだ。どこにも出かけないので専らテレビ鑑賞である。
▲研究作業開始は2日からとなった。そしていきなり、私の「征西戦記稿」まとめの資料のモレ部分が見つかった。多分今までの最大のミスであろう。画像とそこにある説明でご理解いただけると思うが、「⑥」までだった資料に新しく「⑦」を追加してある。通常は一部の少数の字句がモレるのだが、今回は見事に歴史の一側面が消えていたのだ。この作業をしていたからこそ発見できたのだから、改めて「西南記伝」に感謝したい。▲「西南記伝」の多くの部分は「征西戦記稿」を多く引用しているが、時々「西南之役懲役人筆記」が出て来る。今日の初仕事ではある箇所で連続7名の記録が氏名付で引用されていた。いずれも西南の役に参加した西郷軍の第二砲隊の兵士が監獄で書いた文章である。いつもはこういう時には「戦闘手録」と紹介されているが、何故か今回は「戦闘筆記」となっている。
紹介するのは、内容重複を避けて、7人のうちの4人の文章である。1877年2月22日関して採用された文章である。
①今左に、薩軍第二砲隊附仁禮猶介以下諸氏戦闘手録の数節を掲げ、以て薩軍砲撃の模様如何を知るの一端に供せん
●花岡山両所に塁を築き、拾二門の砲を備へ、一時に連発、城兵と砲戦す、後長六及び安政(即ち安巳)の両端(※橋)に砲を備へ、昼夜砲戦頗る烈し、後分隊長と為り、出町赤尾口は正面より砲戦、是も亦同前なり(仁禮猶介の戦闘筆記)、
●廿二日夜十二時頃熊本城下に至る、直に花岡山上砲台を築き、砲撃すれども利あらすして、出町に転軍す(安藤喜藏戦闘筆記)
●先づ距離を計り谷尾村(※谷尾崎村)、日向崎に砲台を築き、連日戦ふ、十余日桶屋町に守兵し、長六橋涯に塁を設け数日連戦す、後ち赤尾口及ひ出町本道の砲台(砲塁ならん)に於て守戦す(讃良貞信戦闘筆記)
●熊本城下に到り、直ちに城面の花岡山に砲台を築き、攻撃すること連日、三月上旬頃予四斤砲一門を預かり、城下長六橋の側らの塁に転じ之を守る(有川仁平太※二平太戦闘筆記)
②(解説)薩軍の砲撃運動は以上記するが如く、比較的其効果少かりしに相違なきも、当時城兵をして幾多の苦痛を感ぜしめたる事実は之を認めざる可からず
◎※部分は私の記録から確認した結果、訂正した部分。ここでの①と②の部分は本誌の主張部分なので、私は必ず「(解説)」と頭に置いてから書くようにしている。

★いろいろあるな今年も2021年01月12日 11:26:28

▲この日はmouse機で作業中、連続2回起動中の4つのエクセルファイルが消えた。すぐまた復原されるが、ファイル名の後ろにversionの字句が付いている。その部分を消してから再保存する。今までも何回も経験しているが、まとめて4つは初めてかな。この日の2回のうち1つは1ファイルで、行削除した瞬間だった。
 次の日気づかされた。あるファイルのハイパーリンクが見事に書き換えられており、使い物にならなくなっていた。
※教訓:突然の無断消滅そして再起動は不運とあきらめ、決して再保存などはしないこと。親切のウラにワナあり。
▲以下は「西南記伝」の作業から気づいた箇所。1877年2月26日の高瀬の戦の一部分。
①是より先に各隊の寺田に入るや林阜あり、左右に雙峙す、而して薩軍先づ之れに拠れり、別府・力石の両少尉及び青木(貞政)・村本(以政)両中尉は各前衛1小隊を率い、阜を攀ぢて、右顧するに薩軍(熊本隊)約500名林中に散布し、官軍を見て戦を交ゆ、官軍進撃、20mの近きに至り吶喊敵線を突く、時に第一連隊(第一旅団)の2中隊(三大二中三中)亦た第十四連隊と共に敗敵を追ふて此路へ進入せり
②薩軍益す守線を整へ、樹幹を楯とし、拒戦甚だ努む、内藤大尉(正明)其隊(一連三大三中)を率い、吶喊敵線を突く、他隊亦た勇を鼓して之に継ぐ、薩軍亦短兵を以て之に応じ、戰况猛烈、大尉以下死傷極めて多し、而も薩軍後勁の来り代るべきなく、終に退却するに至れり
③是に於て薩軍は散伍を収拾し直に進撃に移りしも、弾薬竭乏せるを以て、姑く進撃を停止せしに、迫田大尉・羽入中尉(方矩)自ら弾薬を齎し来り其隊に分配し、更に諸隊を前進せしめたり
◎「③」の文章の「薩軍」は確かに印字されていた。そして官軍の「弾薬」を受けた「其隊」と同じである。これは明らかに「薩軍」ではなく「官軍」である。元の資料である「征西戦記稿」では「薩軍」ではなく「第一中隊」となっている。そこで私は「薩軍(㊟官軍の間違いか)」と表現することにした。
▲「西南記伝」は実に巧みに「征西戦記稿」の文を表現している。有難いのであるが、何せ漢字が難しい。ついに長く使わず行方不明だった漢和辞典が今や必需品である。
例●後勁(こうけい)●囂然(ごうぜん)●閴然(げきぜん)●柬(かん)●炊爨(すいさん)、いずれも語句登録させてもらった。でも読み方を忘れるのでまた悩むことだろう。最後の「炊爨」は「炊事場」を「炊爨場」と変えてあったので意味はすぐ分かったが、文字を見つけだすのに時間がかかった。
▲画像は我が家の庭の初雪の風景から。

★「西南記伝」研究作業から2021年01月20日 10:46:59

▲画像はやり直し作業中の一画面である。
①作業は「西南記伝」をできるだけ正確にフォローする。今やっている部分はそうなっていなかったので。だから「やり直し作業中」なのである。
②上記①に相当する出典資料を見つけ出す。主なものは官軍側資料で、それもほとんどは「征西戦記稿」である。時々薩軍側の資料が出てくるが、これは「西南之役懲役人筆記」(「鹿児島県史料西南戦争第二巻・第四巻」)がよく出てくる。画像には加治木常樹の「薩南血涙史」と推測した(実はコロナのせいで図書館に行けない、だから見ていない)の一文と同人の「西南之役懲役人筆記」の一部分がある、番号数字の最初が「12」は西南之役懲役人筆記者が東京での懲役人であることを示す。場所は防衛省のところだ。残念ながら「田中賢道の戦記」については何の知識も持ち合わせない、人物名は初見である。
③作業は私の「●不明地名調査用191007」のファイルの1シート上で行っている。下に見えるファイル名のうち更新日時が最新のものは、「西南記伝」のお蔭て、私の「征西戦記稿」記述部分にミスがあったことで訂正を加えたことを示す。さすがに年末以降は数行ものモレがあることなどはなく、最新は人名の姓でなく名の部分のミスの訂正である。ここ数日は逆に「西南記伝」のミスと判定したケースがある。
▲画像の部分の研究上のポイントは、「西南記伝」編集者が、薩軍が2月何日に山鹿に着いたのか明確には知らなかったことだ。資料を挙て2月24日か、25日かと論じている。私は「西南之役懲役人筆記」の多数の記事から25日と思っている。この書が作られた明治40年代に、特定するのでなく「推定」と思われる記事があるのは意外だ。当時の編集者にとっては「あれから30年」という思いであったのだろう。
▲作業中、私がホッとするのは人物名の下の「現陸軍大将、伯爵」の文字を見る時だ。「現」ではなく「当時」なら、今昔含めて該当するのでは。悲しいのは官軍兵士で薩軍と戦い、「之(戦場)に死する」とある時だ。一般兵士の記事ではなく、多くは士官、それも中尉・少尉・少尉補(「征西戦記稿」では少尉試補)・見習士官が多い。私が一番同情したのは、乃木少佐の官軍初戦で戦死した吉松少佐の死だ。最強の薩軍の攻撃を受けて戦死した。高知県の人である。「征西戦記稿」は実に丁寧にそれを記す。ほかにそのような記事はない。なお上官乃木少佐は軍旗を失い、取返すために薩軍に返戦せんとしたが、「村松曹長・櫟木軍曹泣て少佐を擁止して曰く、此れ閣下の死所に非す、閣下にして而して死せは後事測る可らさるなり」と説得されて思い留まった。

★久し振りの大ミス改訂2021年01月24日 01:24:13

▲かって作成過程では日常茶飯事であった改訂作業だ。その多くは「西南之役懲役人筆記」の編集中に突然起きる。「○○日」、これが急に「××日」に変更せざるを得なくなるのである。私の資料は日付単位がキモである。
それはこの日は私の編集した「征西戦記稿」の中で起きた。これは前回の改訂がいつだったかも忘れたが、相当前、いや、日付変更は初めてかも。
その資料は、以下の通リ。
●三浦少将(P22)
是日三浦少将も亦山縣参軍に報ず、其大要左の如し
昨暁まで両度の攻撃皆十分の位置に達するも連絡長大にして一所の混乱より遂に全面の混乱を惹起せり、因て進退共始終大兵を動かすなり、今一策姫井地方より山鹿に迂回せしめば必勝たるべく思考すれども兵衆を得ざれば能はず、姑く時機を待つのみ、現今の景況は彼我共に唯防禦に注意せり云々
◎最初の「是日」を私は「3月17日」と解釈していた。続きの文をよく見ればこれは「3月16日」であるとしたはずであるが。「征西戦記稿」も「西南之役懲役人筆記」もその原資料の状態のままの3資料上では単に「317」を「316」に変えるだけで済む。ところがそれだけでは済まないのが日付順に並べ替えられているエクセル2資料・ワード1資料である。大事な地名説明も付けてある。
●以下はその1つ、「3★全地名検査(3訂)(提供用)200310」を画像で示し、説明する。
「317」から抜かれた資料は今ここに新しい位置「12」を得た。結果縦と横の黄色部分が書き替えられることになった。この資料に地名説明がある。若し「11」までに同じ地名説明があれば「12」での説明は重複するので削除されねばならない。幸いその作業は不要であった。
▲過日、DELL機から大型ディスプレイに繋いで作業していたら急に消えた。見るとDELL本体に画像が出ている。線は、電源は、コンセントはと確認する。最後にDELLの起動ボタンを押した。そのせいかどうかは分からないが、また正しく画像が回復した。気になったのは変な音がしていたことだ。私は外付けハードディスクと思ったが、ひょっとするとDELL機か。

★「西南記伝」の作業は中巻二へ2021年01月30日 19:39:34

▲中巻一の書き直し作業は終った。記事に相当する「征西戦記稿」と「西南之役懲役人筆記」を照合させる作業はほぼ一ケ月を要した。それぞれのファイルに「西南記伝」の字句を入れて検索する。私の資料では「4語」同時に検索できるようになっている。敢えてそれ以上に増やさないようにした。ピタリと当てればヒット、当らねばアウト、再度また再度当るまで語句を選んで挑戦する。それでも検索出来なければ「出典不明」と記す。
当たれば、その一文を「西南記伝」の欄にコピーして、それを基にして「西南記伝」のPDFに合せて修正して行く。
▲1877年4月20日、御船をめぐる戦で薩軍と熊本隊などが大敗をした。これが同日の熊本城外の東方面の健軍・保田窪・長嶺等の戦いにも影響し、熊本方面の全面退却になって行く。
●「西南記伝」
①是より先に、少将は諸隊の進撃に先ちて御船川の北岸を渡り、水島中尉の狙撃隊をして矢部街道の近傍に埋伏し、以て退敵を猛射せしめしかば、薩軍為に退路を失し、倉皇河を泳ぎて遁るるあり、水に溺れて死するあり、官軍岸に立ちて之を狙撃する、宛も浮鴨を射るが如く、死屍数十、波面紅を潮するに至る
②薩軍終に飯田山、木山、西倉、木村に退却せり
③少将は午前10時御船に入り、尋で諸軍四面より御船に会せり
◎上記の文面は以下の2文が基になっていると推測した
●別働第二旅団(P11)「征西戦記稿」30025017
①初め山田少将は御船原の戦尚ほ酣なる時御船川を渡り其北岸を進み、水島中尉に命じ狙撃隊を矢部道の傍に伏せ、賊を待たしむ、賊果して此道より走る、狙撃隊起て之を撃つ、賊大に驚き復た戦ふに及ばず、弾に応じて殪るる者200余人、午前10時少将御船に入り、諸隊を集合し暫く休憩せしむ、
②(略)
●「西南之役懲役人筆記」12188028
28.同十八日官軍大挙三面より斉しく御船を攻撃す、勢い甚熾んにして諸塁悉く苦戦ならさるはなく、薩及我軍防戦二時間可り、遂に支る能はす、諸塁一時に敗れ潰ゆ、我九番小隊尤も困却、悉く河を游て遁る、官軍岸上より之を瞰射す、恰も浮鴨を射るか如く、河水為めに赤し、我軍輜重・軍実道路に遺棄し先を争ふて走る
▲画像は今年も春を告げる日木山(ひきやま)川沿いの菜の花。