★広縁の鉢が庭へ出て2021年03月04日 23:25:12

▲ここは私の春・夏・秋のパソコン室である。冬の期間だけ我が家の庭の貴重な(?)鉢類が避寒して来る。例年は私のパソコンも同居していたが、昨年12月には思い切って鉢ご一同様に明け渡した。パソコンは居間の一部を借りた。このよさはテレビを視聴しながらでも作業が可能だったことだ。
▲今回の春からの広縁のパソコンをどう配置するか、思案数日。昨日と今日で新しい位置を定めた。
①先ず、昨日はパソコンデスクを自分の小部屋に移動させた。そこにmouse機を置く。今までの手作りデスクは不要になった。
②今日は、これまた広縁用の手作りデスクを新しい位置に置いた。極めて窮屈である。いわゆる工事用のコンパネを丁度半分にしたサイズであるからそれも当然である。そこで改造に取りかかった。
(ア)画像の上段は、改造の為めにコンパネ部分の切り落とし(30㎝弱)作業が終った直後、鋸が劣化しており、10分以上かかった。
(イ)もう一つの作業があった。パソコンの下にニトリの新品のマットを繋ぎ合わせて置くことだ。ところがこれと従前のマットと繋ごうとすると接合部分の形が違い、また全体も若干大きい。結局更にまた8枚(2組)買うことにした。
かくして画像の下段のような新しいパソコン室が完成した。ただここにはプリンターは今のところ置かないつもりだ。
▲「西南記傳」は、ここでは「西南之役懲役人筆記」の薩軍兵士の記録をほぼそのまま利用している。内容は1877年6月22日朝官軍が現姶良市重富の海岸へ押し寄せた時の薩軍側の記事である。
6月23日夜(22日夜の誤)官艦数艘、重冨郷の海濱に乗入り、払暁水霧に乗じて、軽舸数十隻より上陸攻撃す。味方之に応じ、発砲防戦すと雖ども、寡兵にして支ゆること能はず、遂に敗れて吉野本営に来報す。此時に当て、蒲生郷に粮米の蓄積・弾薬製造所の設あるを以て、敵に該地を襲れん事を慮り、直に松本(注:松元)某援隊を率ゐて、吉田郷に至て防戦す。味方別に遊軍なきに依り各隊より援(注:絞)兵し、漸くに一中隊となし本道を進むに、最早官軍白銀坂を越えて吉野関屋に進入す。(略)軍艦よりも烈く連発、味方四面に敵を受け支ふる『力』なく、午後五時比、終に下田・
◎記事の最後の部分にある『力』の部分は、「西南之役懲役人筆記」原本のカタカナ文では『力』、それをスキャナーはカタカナの『カ』と読み込んだ。ひらがな変換をしたので私の資料では『か』となっていた。実はスキャナーとOCRによる文章作成は楽であったが、このようなミスが多く、今もなおこのように発見される。他方、「征西戦記稿」は印字の関係で全て手打ちだったのでこのようなミスはないが、代りに文字見落としが時には2,3行に及ぶ。それもこれも今の「西南記傳」の作業中であったからこそ気付くことができた。改めてこの作業のよさを実感している。
◎文中の「注:」は原文に基づく。

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