★4つの不明地名一挙解決2020年07月14日 23:00:44

▲その4つとは熊本県五木村の地名である。関係ある「西南之役懲役人筆記」の原文を示す。
①同三日(5月15日)より梶原・頭地口・ユス尾四(三)ヶ所番兵
②同三日(5月15日)より梶原并頭地より東に当り、ゆす之尾両所へ番兵
③同(5月)17日頃前軍敗走の趣坂田權重郎申来に付、一と先ユヅノヲ迄退き候処
④翌十九日(5月31日)人吉へ繰込、当夜常山隊右三番隊長迫田權五郎ゆすノ尾にて手負いたし、平野正助より中隊長原田彌兵衞指令にて跡可相勤旨承り
◎地名①「ユス尾」、②「ゆす之尾」、③「ユヅノヲ」、④「ゆすノ尾」が全て同一であることは分かる。地図やネット情報で探し回ることほぼ1日。私の「長考」は続いた。もっとも時間の制限はない。ヒントは③の「坂田權重郎」、④の「迫田權五郎」である。この両名は同一人で正しい名前は④である。そこで「西南之役懲役人筆記」の資料に名前を打ち込み検索すると、彼は戦死することなく隊長という立場で懲役人として刑に服している。その記録には上記の4つの文にはない地名があり、彼の隊の活動が見えてきた。結局4つの不明地名は以下のようになった。例を①にすると、「※ユス尾(葛八重クスノ゙ハエ、五木村葛の八重、葛の八重集会所、宮目木谷)」。迫田の文に「轡ノ羽」とあり、そこに「(葛八重、五木村)」の編纂時の説明が付けてあったことが大ヒントになった。迫田の原文の「くつわのは」は「くずのはえ」と解釈されていたたのである。五木村葛の八重は五木村の南端にあり、彼等はここを去り、人吉へ向かうが、6月1日終に官軍が人吉を占領する。迫田は大畑(おこば)の病院にあったが、まもなく療養のため帰郷する。
※平野正助は幹部、原田彌兵衛は原田種秋(延岡長井村で降服、懲役人)。
▲画像は家人自慢のカサブランカ。何となく映画のあの美人に似てるような。

★轟浜を土々呂の浜と解釈した2020年07月03日 20:25:30

▲以下は西郷軍一兵士の日誌より。
①1877年3月25日植木方面で右肩負傷、その日の内に川尻着。
②31日「味方不利」と御船へ移される。
③4月2日朝7時出て午後2時木山へ着(百姓宮元宅)、同郷8人。
④12日川尻の方面の砲声聞く。
⑤13日矢部へ引き上げとなり晩2時(3日午前2時)発足、午後3時着、行程8里。
⑦15日「重創」は馬見原へ向かう(この日熊本城連絡、官軍勝利)。
⑧16日朝9時同宿一同馬見原へ。午後4時着(田中宅)。行程5里
⑨17日「重創」は延岡領三田井へ発足す。
⑩21日午前9時馬見原発、午後4時三田井着、行程5里半。
⑪22日午前8時三田井発、昼宮水着(先が支えて進めず)。
⑫23日午前8時宮水発、午後(午前か)11時新町(後藤宅)。行程3里(先が支えて進めず)。
⑬24日午前8時新町発、1里の滝下、船に乗る。雨天。午後4時延岡町着(士族小田宅)、同宿8人。
⑭4月27日(原文)
●9時比より降雨、午前7時比延岡町出発、宿駕籠に乗り五里位來り新町と云ふ宿に夫継替昼飯等夕べ今日何とも都合宜敷雨も強く降り候得共昼休みも着後美々津にも着後大雨降出し夫方は新町迄は大壮勇の夫三人にて跡より一番先荷届き候処町より四五町手前にて継替又新町より請取候人夫も四人ながら壮勇の者共にて又二三番に荷届き候処宿も早手當相成居川宮友と云ふ後家所へ二時過着宿直に医衆旅宿へ届出候処暫ありて医三名被参治療被給久保氏原田氏木佐木氏中村氏外に弐名是れは他郷の人同宿す木原氏白坂氏は今日は離宿なり●一今日は轟浜より右は松山左は始終外海辺、新町は戸数140・150位美々津町は1000軒と云ふ由にて、何れも相應の町也、延岡町より美々津町の道法8里※新町(富高新町、日向市本町、国道10・327・県道226・塩見川)※美々津(日向市美々津町、国道10・県道51・302・耳川)※轟浜(不明、日向市平岩金ヶ浜辺か)【20004071】:(1)
◎「※轟浜(不明、日向市平岩金ヶ浜辺か)」は次のように替える予定。「※轟浜(土々呂の浜、延岡市土々呂町1~6丁目、国道10・県道224・226、土々呂漁港)
▲画像は梅雨豪雨の合間に現れた蝶。そのいろんなポーズの1枚。

★パソコンに違和感あり2020年06月29日 09:56:19

▲先ずはエクセル。最近よくある現象がある。それはPDFの地名をコピーしてエクセルに入れ込む作業をしていた時だった。2つか3つの字句をコピーして入れ込んだ。最初はうまくそのまま字句がセルに収まっていた、そのうちコピーした字句が貼り付けられない、いやそのセルをクリックすら出来ない。ためしに別のシートに貼り付けたら出来た。そこでこれを再度コピーして改めて最初のシード入れ込むことが出来る。回復したのでまたコピーアンドペーストを2、3回するとまた同現象が起きる。時にはワードに入れたり、ほかのエクセルに入れ込んだりするとまた出来るように回復する。この変な現象は今のところDELL機でのみの現象である。エクセル自体の問題かDELLの問題か、はたまた私の操作自体か。
▲最大の問題はこのDELL機の発する音が大きいことだ、時におとなしくなることもあるが、大した作業でもないのにやたら一定のリズムで屋根に落ちる雨音みたいな異音が続く。消えるのは閉じた時だけ。この文章を今ワードで書いている。急に音が止んだ。何の異音も無い。耳をつけるとわずかにモーター音がする。YouTubeの音楽がきれいに聴こえる。一度保存し直して再度立ち上げてみようと思う。
 8分後起動した。その時から「雨降り」音が始まった。再びワードを書き始める。ワード以外にはネット接続すらしていない。2段にしたタスクバーいっぱいにフォルダーやファイルを広げた状態と同じ異音が続く。ある芸能人の言葉を借りる。「こりゃ、ダメだ」。
▲地名説明訂正作業は成果は出ない。以下の資料は1877年4月20日記事(「征西戦記稿」)。4月15日熊本城と連絡した政府軍はこの日西郷軍を熊本市街地・周辺部から追い払う。私はこれを熊本東部の戦とする。
●是日本団は砲廠部を松雲院町(荘厳寺)に、繃帯所を竹迫(見性寺)に設く、是日各旅団と共に進撃の部署を軍団より領する左の如し●右翼○熊本鎮台:立田山以南白川まで○別働第五旅団:立田山以北群山まで●中央:群山より岩迫谷まで○第一旅団○第二旅団●左翼:岩迫谷より鞍ヶ岳まで○第三旅団※松雲院町(熊本市中央区東子飼町、白川、臨済宗南禅寺派松雲院)※荘厳寺(熊本市中央区妙体寺町8-19、浄土真宗本願寺派)※竹迫(不明、熊本市中央区坪井)※見性寺(熊本市中央区坪井4-9-8、臨済宗妙心寺派)※立田山(タツタヤマ151.6m、熊本市北区室園ムロソノ町)※白川(阿蘇山~旧白水村白川水源~熊本市、全長78km)※岩迫谷(イワサコダニ、旧合志町幾久富キクトミ二子フタゴ、県道138、「地名箋」は竹迫町とする)※鞍ヶ岳(鞍岳クラダケ1117.9m、旧旭志村麓)【30025033●巻25御船保田窪木山等戦記】
◎地名説明訂正は「※竹迫(不明、熊本市中央区坪井)」の部分を「※竹迫(タケザコ、熊本市中央区坪井4丁目9-8見性寺)」と替えたいと考えている。ただ「竹迫」が現地にある、またはあったかの確認がまだなので、考慮中である。現在かかる考慮中は43件ある。
▲画像は庭の花。私は花の名はすぐ忘れる。

★思わぬ地名説明の変更2020年06月20日 20:59:32

▲以下の資料にある「日向文黌」について、これは以前にも扱っていたので気は乗らないが、一応取り組むことにした。
◎日記から得た資料、1877年4月8日。
●八日雨甚し●都満を発して広瀬に達す、時に中外、公の深意を知らず動もすれば公を目して反覆となすに至る、本営盖亦之を疑ひ人をして再び兵を出さん事を促す、公戒むる心あり、日向文黌に会して、衆と飲み、別れを告げて大安寺に寓し(田村・長谷場及余と従ふ)、窃に時機を覘ひ舟を福嶋口に艤して東上をはかる※都満(妻、西都市妻、国道219・県道24・318・桜川、都萬神社)※広瀬(旧佐土原町下田島シモタジマ、国道10・県道14・326・石崎川)※日向文黌(不明、旧佐土原町)※大安寺(曹洞宗大安寺、西都市鹿野田、県道325)※福島口(旧佐土原町下田島、県道372・一ツ瀬川)【20036047】:(1)
 先ずは私の定番の平凡社電子書籍に頼る。ヒットせず。そこでこの学校と関係ある人物「島津啓次郎」を念頭にネット情報を集めることにした。その最初の情報にあった言葉にびっくりした。上の原文には「日向文黌」とあるが、これが「日」と「向」が縦に並んだ「晑(キョウ)」の一字となって、「晑文黌キョウブンコウ」となっていた。この文字の意味は「明るい」「明朗」となるらしい。次は佐土原のどこにあったのかである。「晑文黌」を打ち込んだら佐土原(現宮崎市佐土原町)の少し前の広報誌にヒットした。そこには地名と「松下工場跡地付近」との文字があった。
 かくして不明地名は以下のようになった。
※日向文黌(晑文黌キョウブンコウ、旧佐土原町下田島字天神、パナソニックCC九州株式会社付近)
 ただいまはなお上記の通りの「不明」のままの状態である。私としては最後にある2文字「付近」を外したい。そして関係ファイルを訂正したい。
それにはあのマスクをして、あの10万円で現地へ出かけて確かめるしかないのかも。
▲画像は6月某日の我が家の庭の花。

★「征西戦記稿」修正2020年06月17日 09:13:20

▲「征西戦記稿」は国会図書館から1回につき10コマずつダウンロードして、その本文全65巻を、印刷し、それを見ながら1字ずつ丁寧にワード化し、最後はエクセルで仕上げたものである。私が見ながら打ち込む作業だから、ミスも当然起きる。今までもいろいろ見つかり修正した。一部意図的に文字化しなかった部分もある。研究上不要と判断したからだ。作業中には、即断して、「○○の戦」などの題を設定したりして編集しながら進めたから、書き直したとも言える。ただ文字は原文の当時のままの表現を変えることはなかった。私が書き加えた編集部分を含めた全文字数は100万4923語。エクセルのセル数3874。
 そして今回も久しぶりにミスを見つけた。不明地名の並ぶエクセルセル1400余の1つにそれはあった。恐らくこのようなミスはまだあるかも知れないが見直す作業をする余力はない。結果、ほかにエクセル3ファイル、ワード1ファイルを修正し、おまけに不明地名が1個増える結果となった。
●訂正された文章。
第二旅団第十連隊第二大隊は半高山攻撃の左翼と為り、木留口諸隊の連絡を保ち、其第二中隊(石黒少尉)は進て前面の賊塁を抜き、火を生野分村に放て尚ほ進て吉次越の岐路を扼し、其第一中隊(稲葉正輝中尉)は賊を内平山に攻む、賊堅守動かず※生野分村(不明、旧植木町)※内平山(不明、旧植木町)
◎追加した部分
①進て前面の賊塁を抜き、火を生野分村に放て尚ほ進て吉次越の岐路を扼し、其第一中隊(稲葉正輝中尉)
②※生野分村(不明、旧植木町)
▲「征西戦記稿」3874セルの3872番目の文。
◎3872
●西郷軍(1)
▲賊兵は初め二千人を以て一大隊と為し、六大隊を以て熊本に向ふ、熊本縣下の士民之に應する者三千許、其第一(桐野利秋)・第二(篠原國幹)・第三(村田新八)大隊は正面に出、第六大隊は(別府晉介)は専ら熊本を攻撃し、第四(永山彌市)・第五大隊(池上四郎)は其中若干を分て衝背軍に當り、其餘は盡く正面に向ひ、又少しく後れて至りし一大隊(貴嶋清)は田原坂に進み、又賊将邊見十郎太等か中ころ鹿児島に返り新たに募りし千五百人は八代に向ふ、其後阪田諸潔等利秋の命を奉し、薩隅日三州の人民十七より四十に至る者を募て兵と為し、凡そ一萬人を増加す、而して日向地方の士族始より賊に應せし者延岡・高鍋・佐土原・飫肥等無慮数千人、中津の賊の之に投する者百五十人、竹田の賊若干、此他賊中脱逃する者・來降する者凡そ一萬の上に上れり、之を要するに其総数四萬に下らす(画像)