★新年&研究作業から2019年01月05日 22:14:24

▲毎年のならわしは、コンビニに朝刊を買いに行く、そして初日を拝賀するのだが、今年は雲が多く、雲の紅の色を見ただけだった。新聞は例年より分量が少ないような‥‥。
▲年末までに済ませる予定が、意外と手間取り、大晦日から元旦、そして2日まで掛かったのが以下の記録(官軍側:「征西戦記稿」巻55日州各地戦記より)。
●山縣参軍は更に左翼諸旅団の高岡・宮崎に進軍する部署を指定せんが為め、25日都ノ城を発し急行して路を高原に取り、26日野尻に抵り、諸将官と相見て議定すること左の如し(略)●第三旅団の兵は去川右岸より第二旅団の右翼と相応じ国見峠を越え去川に出●別働第二旅団の右翼は第二旅団の本道の兵と合し紙屋を取り、中途より分離し漆野・綾を経過し、米良谷の兵は各旅団の宮崎に向ふ者と連行し漸次に進軍し佐土原に向ひ、其左翼は尾崎に厳守し、皆進路を宮崎に指定す、然れども各旅団進軍の景況に因り或は兵を増し鬼神野より細島地方に突出する事もあるべし(略)
※高岡(旧高岡町五町ゴチョウ、国道10・県道24・28・359・大淀川・飯田川)
※高原(タカハル、高原町西麓、国道221・223・県道405・29)
※野尻(旧野尻町東麓、国道268・県道29・戸崎トサキ川・城之下ジョウノシタ川・岩瀬川)
※去川(サルカワ、旧高岡町内山、国道10・大淀川)
※国見峠(旧高城町四家、国見山407.1m)
※紙屋(旧野尻町紙屋新町・旧町、国道268・秋社アキシャ川、紙屋大橋)
※漆野(漆野原ウルシノバル、旧野尻町紙屋、漆野原一里塚・旧肥後街道、漆野原バス停)
※綾(綾町北俣麓、県道26・40・360・綾北川・綾南川・本庄川)
※米良谷(西米良村上米良、国道265・一ツ瀬川)
※佐土原(旧佐土原町上田島、国道219・県道44・三財川)
※尾崎(椎葉村大河内、国道388・小丸川)
※鬼神野(キジノ、旧南郷村鬼神野、国道388・小丸川)
※細島(日向市細島、県道23・細島港)
◎手間取ったのは、「漆野・漆野原」である。ここが重要な道であると知らなかった。ネットで調べる内に、「漆野原一里塚」の文字を見付けた。すぐに平凡社辞典で確かめた。さらにグーグルマップで探し付けたのが今日の画像である。ただ、地理院地図で見たら、本当の一里塚の位置はもう少し200mぐらい西の南北に走る道筋ではないかと思うのだが。こういうヒットがあると研究作業の疲れが吹き飛ぶ。

★研究作業再開す2019年01月11日 19:12:28

都農町報恩寺前(グーグルマップで作成)
▲正月早々自宅の2つの工事があり、それも終って、ようやく落ち着きを取り戻した。そして昨年12月末までに終るはずだった「1877年7月31日」の部分の修正作業も終った。いよいよ2019年の作業が始まる。当面は「1877年9月30日」部分までの作業が続く。何とか3月中には終りたいが、ムリだろうな。
▲1877年7月31日の宮崎県人物(一般・非兵士)の日記から。
●31日晴、西郷隆盛枡屋に1泊、これまで止宿の者は皆脇宿に移し、かや毛の犬2疋引き駕は澁紙包にて玄関より直ちに上の床脇まで舁ぎ入れ、両脇には兵士20人程列座、通い口には屏風を立て、一向人に姿を見せず、これが正真の西郷なるやは知れず、兼て西郷は犬を愛せると聞及びけるので西郷ならんと推したるなり
◎書いてある内容はこの日の特例ではなく、どこでもこのようにしていたようである。
西郷が宿泊した「枡屋」は現在は宮崎県都農町川北の報恩寺(浄土真宗本願寺派)の建物(画像)だという。実は画像の道は旧道(旧国道10と考える)で、私は2006年ここの前の道を歩いている。この道の先に都農神社がある。当時写真を撮りながら歩いていたのだが、確かめたところでは何も写っていなかった。
ところで西郷隆盛護衛隊の人物の日記にはそれらしい記事はない。多分彼は鹿児島派遣の時点から別行動を続けていたのであろう。その日記は以下の通りである。
●同31日晴、今日午前10時頃柏田村と云う所にて戦破れ、旧佐土原(藩)の広瀬町へ引揚げ、自身共は当所田中村と云う所へ漸時相休み、それより高鍋城下へ着1泊、尤も自身は遠矢氏と当地川端まで散兵探方として参り、午後11時頃右宿へ着す、同隊狙撃隊へ当場所にて逢い、かつ豊後地より応援として1中隊当所へ着し、追々外にも援兵参るつもりの由
※柏田村(宮崎市瓜生野ウリュウノ、県道9・26・大淀川)
※広瀬町(旧佐土原町広瀬、県道326・石崎川)
※田中村(田中、旧佐土原町上田島、県道44・326)
※高鍋(高鍋町高鍋、国道10・県道19・24・44・小丸川)
◎この日記には重要な箇所がある。それは「かつ豊後地」以降の文である。宮崎危うしと大分県にいた奇兵の部隊の一部が応援に南下して来ていたことを記している。

★今年の初開聞岳写真&研究作業から2019年01月18日 02:45:47

▲この日いつものように散歩(自転車)に出ようと市内西端の山を見る。光を受けて山肌がいつもよりスッキリ見える。さては見えるかもとニコンをバッグに入れた。いつもの別府川河口堤防のポイントへ。薄く見えるのはいつもと同じだが、はっきり視認できた、撮影。すぐ国道10号姶良橋へ向か、今一番のお気に入りポイントである。しっかりと撮影。
▲研究作業は1877年8月の部に入った。西郷軍の崩壊が始まった。以下は8月3日の記録(西郷軍)。
●同3日我軍隊伍散乱するにより立岩村にあって兵を休し、山崎定平を推して大隊長代理となし、5中隊を約して2中隊となす
※立岩村(平岩、日向市平岩、国道10・県道226)
●我曹海湾(高鍋)を渡って耳津に走る、この時船覆って沈没する者ありと云う、佐土原の敗るるや兵大いに潰散、隊伍欠亡する者多し、邊見十郎太雷撃隊により耳津河に沿い、海浜より本道の間を扼す、我曹山陰の本道を守る、ここに至って桐野利秋・村田新八・中島健彦等兵を指揮すといえども、兵いよいよ震わず
※高鍋(高鍋町高鍋、国道10・県道19・24・44・小丸川)
※耳津(美々津、日向市美々津町、国道10・県道51・302・耳川)
※佐土原(旧佐土原町上田島、国道219・県道44・三財川)
※耳津河(美々津川、耳川ミミカワ、椎葉村不土野~日向市美々津、91.1km、二級河川)
●仍て翌3日美々津にて悔悟降伏し、田之原二旅団本部より椎木村へ護送相成たり、同隊小隊長は数日を経て降伏せし処、後ち宮崎裁判所にて放免相成りしと
※美々津(日向市美々津町、国道10・県道51・302・耳川)
※田之原(田の原、日向市美々津町、石並イシナミ川)
※椎木村(木城町椎木、県道304・312・小丸川)
●3日、伝令あり、敵既に広瀬に迫る、重傷患者は明日送らん軽傷者は自ら去るへしと、乃ち日高は上成氏と共に相別れて徒歩して去る、嗟予が足と頼みつる日高は此に始めて別れたり、予は独残されて輿夫の来るを待つ、夜三更砲声忽然として近辺に聞ゆ、急に看護人を喚起し医務所に遣り人夫を促せとも埒明かす、亭主を呼へば是も早や何れか逃けたりと覚へて答ふる者更になし、夜中如何ともすること能はす、遂に夜はほの々々と明渡る(註:後日なんとか延岡まで行き着く)
※広瀬(旧佐土原町下田島シモタジマ、国道10・県道14・326・石崎川)

★パソコン状況&研究作業報告2019年01月31日 22:14:00

▲最近のパソコン状況。
全くデスクトップ機は使わない。また広縁に置いてあるディスプレイとノートパソコンを繋いでの利用もしなくなった。理由は寒さだ。2月一杯は自分の部屋で使う形になるだろう。そしてパソコンは使った後電源を「スリープ」にする。そうすると作業状態が常時継続されていることになる。結局面倒を避けただけである。起動の度に作業開始まで5ファイルの作業位置をディスプレイ上でする手間がなくなった。
①エクセルでは数字セルからコピーして「数式バー」に置くと、何故か8桁の最初の数字(最左)が隠れる。ここ2週間ぐらい前からその現象がある。
②ワード2ファイルで同じ「置換」作業をするのに、それぞれにその作業窓の作成をしなければならない。実に面倒である。エクセルは同じ窓で3ファイルでも、いくらでも応用できる。
③過日、久しぶりにワードを怒らせた。作業始めた段階でよかった。もちろんワードの再起動提案は拒否して、もう一度自分の保存したものを再度起動させた。
▲1877年8月15日、西郷軍は延岡奪回を目指して大戦争を仕掛けた。
①西郷軍側資料(簡略化してある)
●此に於て西郷は事の已になすべからざるを察し、一決戰をなし一方を打敗り、勝ち万一に取らんと欲するや、尽く豊后口の兵を揚げ鋒さきを一にして直ちに延岡を衝く、西郷、桐野、村田等皆出でて兵を指揮す、兵氣為に奮ふ、熊本隊も亦頗る奮戰、山崎定平奮然自ら進んで衆を指揮し、忽ち弾丸に当つて重瘡を負ふ、邊見等亦鞠躬尽力則ち退ぞき走る者を斬つて衆に示す、衆大ひに奮ひ進み戰ふ、時に午牌遂に左翼より敗れ、全軍退ひて長井村に拠る、此の時に当りて纔かに我守る処一里方に過ぎず
●此時、西郷・桐野等始めて来たり、銃丸を冒して兵を指揮
●此戦や桐野・村田の両氏は正面和田峠に在陣ありしか、勢既に危窮するに及て麾下の將士之を勧めて退かしむ、然りと雖も両氏は肯せす自若且晒て、曰く「事既に此に至る、生又何そせん、且我輩去らは諸軍又隨て動揺せん、此坐決て動くへからす」と、遂に坐を変せは之を百端強起するに至て徐やく退営す
②政府軍側資料(簡略化してある)
●本日の戦、参謀長品川中佐、参謀平岡・坂元両少佐及び諸大隊長・砲兵長悉く與からざるなし、賊軍は則ち西郷・桐野・村田・別府・邊見等皆無鹿・長尾の間に在て其隊を指揮し、兵員又3000に下らずと云ふ
●我兵に賊将邊見十郎太を識る者あり、其名を呼び進て之を獲んとす、十郎太止まり短銃を放て去る
▲画像は研究作業でその地名の「読み」を確定するのに苦労した「下渡」。※下渡(シモワタシ、旧北方町蔵田、県道237・五ヶ瀬川、下渡バス停)。正面橋は国道218天馬橋。