★今は別作業であるが2022年10月22日 06:18:11

▲前ブログにあった島津斉彬の参勤交代は江戸への旅であった。彼は翌年帰国(下国ゲコク)の旅は、中山道を選んだ。
以下は側近で御供した山田の記録。旅は嘉永6年5月2日(1853年6月8日火曜日)に始まる。
●五月二日、雨、木曾御通行御下国御供、今晩泊番ニ付、御発駕前暫旅服ニて出殿、六ツ半比御先ニ出立・雑司ケ谷鬼子母神茶屋ニて暫休ミ、板橋御休本陣ニて昼飯、八ツ時過比浦和駅住吉と云荒物屋ニ着、尤惣御供可相勤筈之処、御側役江相届御先江出立、戸田川舟渡川巾半程といへと、纔四五町計ニ見わたしたり、仕廻致し、御着前出勤、
一荷宰領家来日高萬五郎外ニ竹中鐵藏、宇都丑之助・草履取宮之城之小右衛門、鎗持(三役之内交代ニて下り候者)、陸尺四人、具足箱持、両掛、合羽籠持之人足いつれも通し人足ニて、①政田屋より差入候、尤馬一疋通し申候、芝御屋鋪御立:二り余
巣鴨御小休・植木や長太郎:一り余
②板橋御休:二り十町
蕨御小休・本陣岡田嘉兵衛:一り十四丁
③浦和御着
一河村宗澹・谷口月窻・玉置平兵衛・黒田松柏、其外④雑司ケ谷御鷹方山田五六郎父子・森覺之丞父子.御泊江参上、御側ニて御酒等被下候
①この旅のツアーガイドは「政田屋」。彼の番頭らしき人物が山田の別記録にもある。
②板橋は中山道67宿の第1宿である。
③浦和宿(駅)は67宿の第3宿である。本陣1・脇本陣3がある。斉彬の宿泊はどこか不明。山田は「荒物屋」住吉屋か。
④文の最後に「雑司ケ谷」がある。内容からすると、中山道ではここが江戸からの御見送りの場所だったのであろう。
▲この中山道の旅を調べるために67宿の一覧表も作った。私自身は「雑司ケ谷」は1度行っているが、板橋以後は全く分からない。グーグルマップとマピオン、そして地理院地図を並べて動くほかない。なお、斉彬の前年の草津~江戸は13日間(草津泊)、翌年の中山道は江戸~草津15日間(草津通過)。
▲画像はグーグルマップに「中山道」と打ち込んで作成した。何故か「浦和」以降は出ていない。本陣・脇本陣などの情報がグーグルにないのか。

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