★「西南記伝」(一部)資料化成る2023年12月15日 18:07:33

▲エクセルファイル名は「西南記伝諸士伝(戦死)231128」。当初の目的は戦死関係情報を求めたものだった。ファイル名の「(戦死)」がそれを示す、本日の画像の右側のエクセル部分の上半分はがそれを示す。しかし下半分の加治木隊は他の情報も打ち込んでいる。ここから下はほぼ全て、本の記述を要約してある。中には西南の役の熊本城官軍幹部の養子が実は「諸士伝」(反政府側)人物の弟という記述もあった。画像左側は打鍵が終った段階での「西南記伝」のPDFである。内容は明治11年の大久保利通暗殺の紀尾井坂の変に関する関係者の記事だ。
 11月28日から12月9日まで掛かった。要約すべきだが、時間も掛かるので略した部分も多いので、将来の追加情報入力を念頭に文末に「(以下略す)」とした。
▲以下は今回の作業例の連続4例。
①M10区長塚本長民等と謀り、延岡隊の募兵・軍資募集、後に降る、不明懲役3年、M12年3月特赦、M24 内藤氏家令
②延岡副区長、M10塚本長民等と延岡隊組織尽力、延岡に留まり、弾薬・金穀等の後方勤務、814延岡陥落、降る、不明懲役3年
③江戸麻布旧高鍋藩邸生、M10高鍋隊と肥後へ、日隅薩の間に転戦利あらず、西郷隆盛と鹿児島へ、924城山戦死、戦死34才(以下略す)
④第四大区区長、第九大区区長、M10高鍋区長、黒水長慥・柿原宗敬等と謀り、向背議す、貴島清の隊に糾合200余名、軍資数千円・兵約600を送る、808高鍋敗戦、降る、市ヶ谷懲役5年、M13年10月特赦(以下略す)
◎①②は延岡隊、③④は高鍋隊の各「諸士」の記録。M10は明治10年(1877年)。「不明懲役」は監獄の地名、秋田・宮城等の文字がない場合の表現。私の「西南之役懲役人筆記」の資料でその都度調べればよかったのであろうが。今回、「青森」3個・「宮崎」2個の監獄名があったが、私の資料にはこの2県名の資料がないので貴重である。
◎以上の記事は12月10日現在のもので、最初のある「本日の画像の右側のエクセル部分の上半分」は数日掛けて、その他情報も書き入れ、体裁を整えた。今は資料として完成されている。ただし、「(以下略す)」部分があるので、さらなる改良も必要かも。
●一例(画像の「163」の人物)
M4近衛陸軍軍曹、M6辞し帰鹿、M10薩軍五大十小分隊長、熊本城攻圍軍、転じて八代方面に向い、中隊編成で十番中隊左小隊長、321鏡に奮闘して死す、戦死※年齢なし

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