★気分一新して励もう2023年01月24日 10:49:09

▲今年からはベッドの向きを東西から南北へ変えた。パソコンも今まではベッドに腰かけて北向きに向って置いて使っていたが、今は南向きに置いて、ベッド脇にイスに坐って動かしている。何年も今までは左耳で聞いていた窓外の音は右の耳で聞く。何故かそれにまだ慣れない状態だ。長い間使っていた自作のパソコン用デスクはお払い箱となり別室に置いた。今はニトリで買ったちょっとした棚にベニヤ板を張って使用している、mouse機はその棚の2段目に半開き状態で収まっている。この半開きが十分でなかったが原因で時々画面が消えて、何か新たな故障(?)と疑ったくらいだ。棚を少し下に移動してやっと正常になった。
▲今の研究作業は西南の役の戦死者の氏名特定の試みである。鹿児島市で知られる南洲神社の墓碑はほんの一部の数であり、その20倍近い墓碑が全国各地にあるはずだ。私は2人の研究者の成果(合計約2200名)を南洲神社「西南の役戦歿者名簿」6785名とすり合わせる作業中である。ここ3日は前記名簿と南洲墓地の「墓石一覧」(西郷南洲顕彰会)と照合を試みて何とか終ったところだ。私がエクセルで作った「墓石一覧」は、氏名を打ち込むと、該当人名の墓があれば、表中に赤字と黄色バックで浮かび上がる仕掛けだ。あの24段に東西40以上並ぶ中からお目当ての人物の墓石を見つけるのが簡単になるのが狙いである。残念ながらコロナの今の段階では使いようがない。
▲西南の役の7月17日の資料である。当時は戦場は宮崎と大分である。これは宮崎県の高原(たかはる)での一戰の記事である。前談記事にも関連する。
●黎明高崎に達す、土人をして敵の居所を伺はしむるに、敵高原の街道に屯すと云ふ、此時斉しく敵塁を襲ひ首を斬ること10余級、敵其不意なるを以て死骸を捨て銃を捨て先を争ふて潰走す、我兵追撃10余丁、敵援兵を出して拒戦すること数刻、遂に勝敗不決して植松へ退く、此時死傷六七名あり※植松(不明、旧高崎町か)【12039025】:(5)
◎西南の役の後に懲役人となった人物の懲役人筆記の一部である。番号「12」で始まるので東京市ヶ谷に入獄した人物。ポイントは「植松」である。私が特定できていない1000以上の地名の1つだ。実は前段の「2人」のうちひとりの研究者の記事にこの日に戦死した人物名がある。その姓は「植松」である。
▲画像は改築したエクセル上の墓地一覧(表の上半分)。左上に入力欄がある。「田中」と入れてある。

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