★何故か戦死日付が「420」(4月20日)に2023年02月17日 12:30:18

▲前ブログと重複する。私の収集した日記・日誌50余と県史料からの千数百人の懲役人の記録は、日付を念頭にそれぞれ5689行、22559行に分断して並べてある。たまたま作成時に戦死者名を別欄に記していた。だから最後にこの2つを並べる作業は予想外に早く一応の完成を見た。
①今は懲役人の記録を元にフォルダーを用い、戦死者名の重複記事を選び、比較検討している。ポイントは例えば3件ヒットして3件とも日付が違うなら、相互比較して正解を見付けることが出来るかである。
②今日の表題はその作業中に気づいたことだ。何故か「420」が次々出てくる。私の常識では「420」は現在の熊本市と周辺をめぐる最後の戰である4月20日のことだ。{?}と思いながら「戦死地」を見ると違う。幾つかの経験から、これはエクセルのミスだと思い当たった。過去も経験がある。結局、ある資料部分の549件の連続行が戦死日「420」だった。それ以上にあるかは、①の作業過程でまた発見するだろう。
※原因はコピーとペーストの何らかのミス。経験豊富だが。今回も修正作業に1時間半かかった。
▲何故か、mouse機もDELL機も動きが共通する時がある。フォルダー機能を用いると。「○○%、4スレッド」(DELL機は8スレッド)と下に表示され、これが「80%」になると動作中の印である「砂時計」が消える。時には腹が起つので強引に1セルをクリックする。すると何故か「砂時計」が消える。私「壊れるなら壊れろ」。
▲日記・日誌は基本的に「日付」から始まるが、懲役人の記録は22559行の内、3000行余は未解明である。残念だが、今回の作業でその幾つかに「日付」できるかもと思う。ただ、それは私の資料のいくつかを丁寧に修正する作業があり、うれしいような憂うような。
以下はその資料の1つ。
15.亦々夜行して竟に小國(小国町)へ出、宮原町(小国町)は夜間通行し、満願寺村(南小国町)にて天明けしかば、一軒の離家に休息せしに、巡査躰の声にて、「只今賊両人此所へ参りたるや」と宿亭に尋問せしに、「此処へ参り候得共最早黒川辺へ参る比なるへし」と答へけれは、右の者は立去けり、暫らくして又々参り、「所々相尋候へとも踪跡分らす此処へ又々参り候ば詐り留置候様」申置立去候へとも、家居の回を取囲み農人を催し来り候気色に付、両人共刀を引抜き山手を指て飛出し疾走して馳去りしに、右巡査の追捕急にして中々可遁道無之故、路傍の木立岩石の際に伏せ待受候処、足形を繋き探の銃を発し捜来り、我伏居候岸上に農兵壱人立顕れ発砲し外の同勢を呼ひ、両三名も来り已に見出さんとするに付、源藏・宗太郎両人迚も遁れぬ処と、太刀真向に差挿み荊棘を払て大喝一声各姓名を名乗て飛出しけれは、巡査其外四方へ逃散たり、是に於て伊地知を呼へとも答へす、(中略)日の暮るを待ち穴を出て見しに人影も無く漸々少し心を安し往還の辺に出たり、洞中にて所持の餅を食し居たれとも夫も已に尽き餓に臨みける故、食を求んと近傍を尋れは幸ひ一軒の農家有り、行て見れは是なん先きに休息したる家なり、因て飯を炊せ一喫し濡れたる衣を燥かしなとして儒袢一つになり、暫く目眠たる間に、捕史数拾名来りて忽ち縛に就き、伊地知宗太郎は先きに追捕の為めに砲殺されたりと就縛の後承り申候、右形行奉上申候也、
▲画像は我が家の果実の今。

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