★「西南記傳」の作業終る ― 2021年06月02日 20:28:35
▲昨年11月に始めた作業はその「第十二篇城山方面の戦闘」の「第二章城山の戦闘」の「十二城山の戦闘に就て」で終えた。何回かの作り変え作業もあり、ほぼ半年余作業が続いた。最後の日にも作業中のファイルが消えるトラブルもあったが、それも御愛嬌と受け止めた。以下がその部分の最初の所。西郷とカルタゴのハンニバルとの比較論には、力不足の私はついていけなかった。
●十二 城山戦闘に就て
①(解説)城山戦闘は薩軍の没落、私学校党の没落、西郷党の没落を現實ならしめたる戦闘にして、此戦役に於ける最後の最大悲劇なりき。而して此戦闘や、メトラスの役にあらずしてザマ(ハンニバルが羅馬の名将シビオと戦ひ、最後の失敗を招きたる戦闘)の役なり。一谷の役にあらずして、壇浦の役にあらずして、大坂の役なりしなり。
②(解説)初め、私学校党の起つや、其勢、雷撃電■、官軍を視ること孤豚を屠るが如く、戦へば必ず克も、攻むれば必ず取り、向ふ所皆砕けざるなき概ありき。而して一たび田原に蹶き、二たび川尻に敗れ、熊本城の圍を解くに及びて、御船の大敗あり、人吉戦闘以来、都城に敗れ、高鍋、宮崎、佐土原に敗れ、延岡に敗れ、連戦連敗の餘、可愛嶽を脱出し、鹿児島に入るに及びて、其勢已に窮せりと謂はざるを得ず。而して薩軍の城山に拠るや、其兵を挙て五百に満たず、其銃器を有するもの、また其半数に満たず。官軍の之れに対する兵数は七箇旅団に達するに於て、衆寡の勢太だ懸絶し、没落の運命は、業に已に未戦の前に決定したりき。
※■部分は印字不鮮明で読み取れなかった。
◎②の簡潔な文は西南戦争の主な流れを巧に表現している。ただ「高鍋、宮崎、佐土原」の部分は「宮崎、佐土原。高鍋」がよろしいかと。ここに載しなかった最後の④の文は「噫嘻城山戦闘は、薩軍の没落、私学校党の没落、西郷の没落を現實ならしめたる最後の戦闘なりしと雖ども、此點に於て、千載の下、凛凛耿耿として正気ある戦闘なりき」。
▲西南の役には私の曾祖父も私学校の一兵士として参加した。幸い早めに生きて帰れたので、今の私がある。
先ほど「靖国神社忠魂史」から作成した「官軍戦死」の一覧表から、以下のように抽出した。
戦死者:大佐1、中佐1、少佐12、大尉49、中尉88、少尉126。
総数を調べようとしたが、資料が重複してるのでできなかった。
●十二 城山戦闘に就て
①(解説)城山戦闘は薩軍の没落、私学校党の没落、西郷党の没落を現實ならしめたる戦闘にして、此戦役に於ける最後の最大悲劇なりき。而して此戦闘や、メトラスの役にあらずしてザマ(ハンニバルが羅馬の名将シビオと戦ひ、最後の失敗を招きたる戦闘)の役なり。一谷の役にあらずして、壇浦の役にあらずして、大坂の役なりしなり。
②(解説)初め、私学校党の起つや、其勢、雷撃電■、官軍を視ること孤豚を屠るが如く、戦へば必ず克も、攻むれば必ず取り、向ふ所皆砕けざるなき概ありき。而して一たび田原に蹶き、二たび川尻に敗れ、熊本城の圍を解くに及びて、御船の大敗あり、人吉戦闘以来、都城に敗れ、高鍋、宮崎、佐土原に敗れ、延岡に敗れ、連戦連敗の餘、可愛嶽を脱出し、鹿児島に入るに及びて、其勢已に窮せりと謂はざるを得ず。而して薩軍の城山に拠るや、其兵を挙て五百に満たず、其銃器を有するもの、また其半数に満たず。官軍の之れに対する兵数は七箇旅団に達するに於て、衆寡の勢太だ懸絶し、没落の運命は、業に已に未戦の前に決定したりき。
※■部分は印字不鮮明で読み取れなかった。
◎②の簡潔な文は西南戦争の主な流れを巧に表現している。ただ「高鍋、宮崎、佐土原」の部分は「宮崎、佐土原。高鍋」がよろしいかと。ここに載しなかった最後の④の文は「噫嘻城山戦闘は、薩軍の没落、私学校党の没落、西郷の没落を現實ならしめたる最後の戦闘なりしと雖ども、此點に於て、千載の下、凛凛耿耿として正気ある戦闘なりき」。
▲西南の役には私の曾祖父も私学校の一兵士として参加した。幸い早めに生きて帰れたので、今の私がある。
先ほど「靖国神社忠魂史」から作成した「官軍戦死」の一覧表から、以下のように抽出した。
戦死者:大佐1、中佐1、少佐12、大尉49、中尉88、少尉126。
総数を調べようとしたが、資料が重複してるのでできなかった。