★(続)西南の役研究より&パソコン ― 2022年05月26日 22:16:05
▲私の記録では、1877年5月17日の記事では、戦闘記事を鹿児島戦、水俣・大口戦、球磨川・人吉戦、宮崎西部戦、大分戦と分類してある。
以下はその記事の一部である。原文の数字は書替え、かな書きにしてある。■は欠字。
(1)水俣・大口戦
●17日雨大いに至る、蓋し時方に梅雨の候に属す、宜なる哉、連日晴れさること此の如し、而して敵亦た敢て来らす、毎日營窓無聊、雨簫條、杜鳴其間に悲鳴す、丈夫の鐵膓轉々、故山の情に堪えず、詩あり曰く「百戰無功壮志違、露營三月濕戎衣、杜鵑不識征人意、夜々漫呼不若歸」、余時々出てゝ哨線を巡視すれは、哨兵皆樹下石間に佇立し以て警備を嚴にす、衣褌盡く濕ふ、其苦實に想ふ可き哉【20045111】:(5)
◎官軍別働第三旅団を水俣近くまで圧した邊見率いる西郷軍は久木野、深渡瀬、大境、小川内へと大口方面へ押し戻されていた。梅雨の始まりなのか大雨が続いていた。記事は熊本隊士の日記である。
(2)大分戦
●五日(17日)雨、今日午前7時延岡町の吉崎仙大郎処出立、午後3時10分前、美々津町の紀ノ国屋へ着泊、途程8里位※美々津町(日向市美々津町、国道10・県道51・302・耳川)【20006094】:(4)
●丁丑5月17日暗旧四月五日、本日午前第7時延岡南町の宿陣を発し、此町に都合4日滞在致し、大瀬橋を渡り富高新町之手前に伊鈴川とて舟渡し場あり、さて新町にをひて昼食をす、然処雨降り出し皆■■之用意■美々津の町入口に美々津川とて、舟渡し有り、此川には大和船等も多く碇泊す、午後2時頃、美々津宿に着す、此町にも、兵隊共滞在して舟渡しに番兵相務候、今日の路は8里と云※延岡南町(延岡市南町1・2丁目、県道16)※大瀬橋(延岡市柳沢2丁目~春日町1丁目、大瀬川)※伊鈴川(五十鈴川イスズガワ、門川町門川尾末)※新町(富高新町、日向市本町、国道10・327・県道226・塩見川)【20031001】:(5)
◎大分に向かった奇兵隊(薩軍)は、既に竹田に入り、大分戦に入っていた。その奇兵隊のうち2中隊が鹿児島支援のため引き上げることになった。そしてこの日延岡を発する。その道中の様子はこの2日誌とほか1日誌に詳しい。
▲数日前2日連続、mouse機での「サインアウト」から画面から終了が失敗した。その後はまたできるようになった。
▲画像は美々津大橋から上流を写したもの(2003年)。川は美々津川・耳川という。
以下はその記事の一部である。原文の数字は書替え、かな書きにしてある。■は欠字。
(1)水俣・大口戦
●17日雨大いに至る、蓋し時方に梅雨の候に属す、宜なる哉、連日晴れさること此の如し、而して敵亦た敢て来らす、毎日營窓無聊、雨簫條、杜鳴其間に悲鳴す、丈夫の鐵膓轉々、故山の情に堪えず、詩あり曰く「百戰無功壮志違、露營三月濕戎衣、杜鵑不識征人意、夜々漫呼不若歸」、余時々出てゝ哨線を巡視すれは、哨兵皆樹下石間に佇立し以て警備を嚴にす、衣褌盡く濕ふ、其苦實に想ふ可き哉【20045111】:(5)
◎官軍別働第三旅団を水俣近くまで圧した邊見率いる西郷軍は久木野、深渡瀬、大境、小川内へと大口方面へ押し戻されていた。梅雨の始まりなのか大雨が続いていた。記事は熊本隊士の日記である。
(2)大分戦
●五日(17日)雨、今日午前7時延岡町の吉崎仙大郎処出立、午後3時10分前、美々津町の紀ノ国屋へ着泊、途程8里位※美々津町(日向市美々津町、国道10・県道51・302・耳川)【20006094】:(4)
●丁丑5月17日暗旧四月五日、本日午前第7時延岡南町の宿陣を発し、此町に都合4日滞在致し、大瀬橋を渡り富高新町之手前に伊鈴川とて舟渡し場あり、さて新町にをひて昼食をす、然処雨降り出し皆■■之用意■美々津の町入口に美々津川とて、舟渡し有り、此川には大和船等も多く碇泊す、午後2時頃、美々津宿に着す、此町にも、兵隊共滞在して舟渡しに番兵相務候、今日の路は8里と云※延岡南町(延岡市南町1・2丁目、県道16)※大瀬橋(延岡市柳沢2丁目~春日町1丁目、大瀬川)※伊鈴川(五十鈴川イスズガワ、門川町門川尾末)※新町(富高新町、日向市本町、国道10・327・県道226・塩見川)【20031001】:(5)
◎大分に向かった奇兵隊(薩軍)は、既に竹田に入り、大分戦に入っていた。その奇兵隊のうち2中隊が鹿児島支援のため引き上げることになった。そしてこの日延岡を発する。その道中の様子はこの2日誌とほか1日誌に詳しい。
▲数日前2日連続、mouse機での「サインアウト」から画面から終了が失敗した。その後はまたできるようになった。
▲画像は美々津大橋から上流を写したもの(2003年)。川は美々津川・耳川という。