★パソコン&地名2024年03月12日 10:59:42

▲DELL機で作業して保存したUSBをmouse機に繋いだら、そのUSB3個全ての作業結果が保存されていない。SD1個も同じだ。ドラッグして入れ込んだのは確かだ。そのうちの2個はDELL機上でわざわざ開いて確認までしていたのに。仕方ない。再度DELL機を起動してその中の2個に入れ直す。ところが再度mouse機に繋いだら、今度はその1個が開けず、再フォーマットを要求して来て、画面は固まった。仕方なく強引にボタンを押して強制終了する。改めて起動させようとすると電源は入るが画面は起動されない。また再度強引に強制終了、二度目の再始動で何とかなった。以後はこのパソコン本体での異常現象はない。
▲研究作業の途中、ある資料にあったのが西南の役従軍者の名前一覧だ。間違うことがないように慎重に名前を打ち込んで行く。最後に「百六十三名」「戦死者二十九名」とあった。いや、私が打ち込んだ数字では161名、戦死者25名である。ミスったと点検を始めた。2回した点検で私のミスはなかった。然しれっきとした鹿児島県のある村の郷土誌である。昭和六年(1931年)の本である。関係者誰も気づいていなかったのだろうか。私は自分の打鍵した結果を正しいとすることにしたが。
▲いつもの表現だが、歴史は時間と空間の産物であり、その中で残っているのは空間のみであり、すなわちそれが地名だ。どこかのその地名で歴史の事件は起き、西南の役ではそこで単発銃での双方の戦がなされたのだ。だから私はわが資料のなかにある地名の完全解明を願っている。最早それは不可能とも考えながら。
▲過日も某所で地名解明の困難さを話す中で、これまたいつものように私の作業の始まったころの一発見をしゃべった。それは「征西戦記稿」の一文にあった「生山」だ。以下原文
①別働第三旅団:入来土瀬戸へ(P6)※これは6月22日記事
少将出水に在り、中川・川畑両大尉に宮ノ城に令し、兵を入來越土瀬戸へ出さしむ、又曰く生山に登り篝火を焚く可しと、蓋し生山は入來・樋脇及び郡山に界し以て鹿児島城を望む可し、故に在麑の官軍に報するなり
②別働第三旅団:入來生山へ(P7)※これは6月24日記事
1.24日昧爽軍を進む、其部署左の如し
◆樋脇を経て生山に向ふ:大山中尉●第五大隊第一中隊●徴募隊五番小隊●遊撃隊12人
◆入來本道より笹之谷村に向ふ:中川大尉●第五大隊第二中隊●第五大隊第三中隊●徴募隊六番小隊●遊撃隊半小隊●山砲1門
◎官軍部隊の一つ(大山中尉)は現在の薩摩川内市の旧樋脇町の一角から「生山」へ少し早く先に着いた。その地は私のよく知る地域である。そこで気づいた。これは「八重山」ではないかと。通常は「やえやま」だが、私が聞いていた古老の言葉では「はいやま」だった。記事に「はいやま」を「生山」としたのは「生(生える=はえる)」から思いついたのであろう。なお「征西戦記稿」附録の「地名箋」には「生山」の説明はない。
▲画像は国道328号より鹿児島を望む。入来峠から少し下った所から。元はストリートビュー画像。「生山(八重山)は峠から入った八重山公園辺より登る。多分兵士は6月24日に始まった官軍と薩軍の戦闘の様子を見、実際鹿児島に入ったのは翌25日であった。

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