★開聞岳が見えた2021年05月03日 23:46:04

▲今日は私の弱った目にもはっきり見えた。予兆は近隣の山々がはっきり見えていることであった。特に桜島の山筋がクッキリがいいのだが、少し薄いので期待は半々で、いつものポイントに立つ。カメラの焦点を山に合わすことが出来るカメラならもっとよく写ったであろうが。それにしても年々薄く見えるようになったような。
▲「西南起傳」についての作業は1877年8月に入った。西郷軍は延岡に追い詰められた。そして8月14日その延岡も陥落する。
①第二旅団は、14日午前零時、大野を経て延岡に向ひ、三好少将、参謀諸官を率い、護衛1中隊(齋藤大尉)を以て之に継ぐ。
②石本・中岡の両隊(淺海・和智・中谷三大尉、松本中尉)は午前1時大野に達し、是より別働第二旅団兵と共に進みて、三輪に至り、中岡大尉は1中隊(中谷大尉)を以て延岡本道に、石本少佐は3中隊(淺海・和智両大尉、松本中尉)を以て、百貫より五箇瀬川を渡り、直に中洲川に向ひたり。
③時に砲声延岡山上に起る。漸く之(川)に近づけば、薩軍前岸に伏し、官軍を扼せんとす。乃ち兵を三道に分ち、流を亂りて進みしに、前岸の薩軍遂に山に向て逃る。因て1中隊(淺海大尉)をして其出路を塞がしめ、其餘は延岡古城址に入り、前衛1中隊之れに踵で至る。
④中岡中尉、其兵を率いて南岸に沿ひ、三輪、三須等を経て延岡本道に出で、別働第二旅団兵と共に市街に入りしに、薩軍器械・弾薬を委て熊田地方に走る。
④是に於て、諸隊を分ち、中谷大尉は豊後方面百間橋より、和智大尉は門川方面柳橋上流より共に海岸に至り、粟屋大尉は五箇瀬川の内岸に、松本中尉は旧城内にありて、之を守りしが、諸旅団の兵大に至れるを以て、守線を挙げて之れに譲れり。
⑤又、水野大尉の1中隊は、午前3時上衣野を発し、間道より延岡に入りしが、途上、敗賊40餘名の山田に憩ふに会し、1小隊を以て之を攘撃し、其5名を擒にせり。

★研究作業&パソコン2021年05月09日 23:36:46

▲「西南記傳」は「薩軍の突圍」を以下のように記している。
①(解説)翌17日、午後4時、西郷再び軍議を開きしに、邊見・河野曰く、「敵兵險を恃み、守備必ず薄弱なる處あらん、若し可愛嶽を越ゆることを得ば、豊後に突出する、必ずしも難しとせざるなり」と。別府・中島等は豊後突出の策を不可とし、鹿児島に入りて再挙を図らんことを主張し、村田は沈黙して口を開かず、而して桐野は豊後方面に突出せんとするの意ありき。乃ち決を西郷に乞ひしに、西郷曰く、「先づ三田井に出で、然して後、其方向を決するも、亦未だ晩しとせざるなり」と。議始めて決したり。
②河野主一郎の口供書中に、
連戦利を失ひ、兵気頓に挫け、復振ふ能はず。桐野利秋、豊後に突出せんと企てたれども、官軍堅牢、破る能はずして止む。故を以て、軍中色を失ひ、出づる所を知らず。自分試に十郎太に謀るに、可愛嶽を越えて豊後に脱せんことを以てす。同人輙く同意せるに因り、直に本営に至り、西郷、桐野、村田、別府等列席の處に於て、前議を発するに、桐野は同意、村田は黙す。別府晋介、中島健彦等は鹿児島に入り、再挙を謀るを良策とし、議論紛紛、帰結する所なし。其時、西郷議して曰く、「先づ三田井に出で、然して後方向を決する、未だ遅しとせず」と。於是、議初めて定る。
とあるもの是なり。
◎①の文章の元になったのは②の一文である。今まではほとんどが「西南之役懲役人筆記」からの引用だったが、これは裁判記録の「口供書」のようである。残念ながらこれは私は収集していないので、あるがまま見るしかない。「西南の役薩軍口供書」(小寺鉄之助)があるが、これは電子化されていない。
◎1877年8月17日、急きょ可愛嶽突破作戦が始まる。以下はその兵士の一文。
●8月17日、午後十二時(㊟十時)頃より、惣進軍の令あり。我輩其向ふ所を知らず、山の中腹に至て可愛嶽なるを知る。既にして言語を禁じ、敵の柵前を忍び、同十八日黎明嶽上に在る塁壁に達し、直に抜刀進んで之を破る。敵狼狽して山間に逃る。(後醍院良弼戦闘手録)
▲パソコンいろいろ。いつも何かがある。
①有難いことにOneDriveがmouse機とDELL機が通じはじめた。何かした覚えはないが。
②確かにmouse機で3つ(USB1・SD2)に保存した。然し、DELL機を起動して開くと「保存されていない」。幸いOneDriveにあったのでそれを用いた。逆にDELL機からmouse機へはうまく行く。
③やたらアカウントの更新を求めて来る。知らぬ振りをしている。
④Outlookはmouse機では快調、DELL機では2つのメールが出て来て困っている。その度にあれこれさせられる。。
⑤DELL機ではyoutubeが繋がらない。

★今年最初の蝶の画像&作業報告2021年05月12日 11:39:14

▲少し前から白い蝶が舞っていた。文字通り「舞って」いるだけで、幾ら待っても止まってくれない。それがこの日はその麗姿を撮影させてくれた。家人が教えてくれた「ウツギ」、その花蜜を求めているような感じである。この日の最高の画像は残念ながら手前の葉先きに焦点が定まり、ボケてしまったので、次善がこの画像である。
▲「西南記傳」の作業は長い長い作業が続いている。編集者は主の「征西戦記稿」に加えて「従征日記」なる本を活用するが、私は採用していないので、打鍵作業に疲れ果てた。以下はその一文から少しだけ。
①(解説)初め、薩軍の来襲するや、糧食課の夫卒、驚走潰亂の模様名状すべからざるものあり。「従征日記」の記する所、善く其眞を得たるを以て、左に之を掲ぐべし。
●是時に當りて、此地の雑沓言ふべからず。軍夫等弾薬を棄て、兵餉を擲ち、先きを爭ふて走り来る。我曹声を励まして之を制止するも、一人の足を止むる者あるなし。医官等も亦走り来るに至る。予は其医官を叱咜して、小繃帯を大野村に置かしむ。其の尤も甚しきは、遊撃第八大隊なり。装剣の銃を携へて、軍夫に混同して逃るる者あり、予は之を呼んで、故を叩くに、知らず、只だ「賊襲来襲来」と呼ぶのみ、頃刻ありて山脇大尉来る、大尉は曩に平澤等と共に本営より脱し来れり。是に於て炊爨場を他に移し、尚ほ此の地に於て防守せんとす。
●是より先き、第二旅団の少尉某、専ら防守を謀る、因りて予は山脇等3人と力を合し、其策を議す。初め予の至るや、途にして近衛隊の来るを見る。是に於て、直に使を馳せて急を告ぐ。比志島少佐、兵若干を率いて来り援く。吾曹、塁を要地に築く。塁は皆な第二旅団の糧米を用ふ。而して銃砲の声甚だ寛にして、賊侵襲の形あらず。軍夫等既に盡く逃れ去りて、反りて閴然たり。吾曹乃ち進みて濱子に赴く。
●途にして森本軍吏補に遇ふ。軍吏補は糧食諸品の須用なる者を大野に移し、将に炊爨を開かんとす。予復た軍吏補を以て、濱子に抵る。
◎8月18日、西郷軍は突然可愛嶽頂上に現われ、第一旅団・第二旅団の本営を急襲する。以上に見えるのはその混乱の一部である。最後に見える「濱子」は浜砂(ハマゴ、延岡市宮長町、県道207・祝子川)。
このことを心配していたのは山縣参軍だけだったのでは。

★「西南記傳」と「西南征討志」2021年05月19日 11:41:47

▲画像は1877年8月31日の「西南記傳」の一文で元は「西南征討志」の記事である。
可愛嶽を脱出した西郷軍の鹿児島入りは翌9月1日であり、直前の官軍側の状況が書かれている。そこに幾つかのミスが見られる。
①それは私の作成した「西南征討志」にも同じくあった(画像右の黄色の青下線部分)。それは原文では「大尉石田中尉町田少尉隈元児玉少尉補・・・」とある。それを「大尉」はたまたま氏名がない別人と思い込み(私はそうだったが)、「石田中尉町田少尉隈元児玉少尉補」と読み込んだのだろう。
②画像左の「西南記傳」の最後の部分(赤四角部分)の「陸軍の来襲に備へたり。」は、申し訳けないがコメントした通り、「賊の・・・・」であろう。
▲最新小型キーボード画像は今や2つ共順調に使用できている。今の悩みは「Shift」キーと「左右上下」のキーだ。
①何故、「Shift」キー(黄色四角)が2つある?
そしてうっかりそれを押さえた(指が触れた)状態になると文字が「ああああああああああ」とか暴走するような。
②「左右上下」のキーは小さすぎる(橙色四角)。すぐ上の「Shift」キーがなければ大きくできるのに。
③この文を書きながら暴走に3回遭遇した。短時間3回は初体験。
▲コロナワクチン受付が電話のみ。何回しても無理。家人が代りにしたら、「もういっぱいになったので受付ません」と。私には受診の時に受付係が「今月いっぱいぐらいは」と言っていたのに。市からのパンフには「先着順ではありません」とあるが、数のことは触れていない。これではワクチンではなく「枠珍」ではないか、枠が決まっていて当るのが珍しいから。

★昔の記事を使って書く2021年05月31日 17:43:17

▲以下は「タブレットNexus7記(1)」と題した2014年当時のブログの記事を元に作成した。今なおNexus7は使用している。悩みは保護するカバーが劣化して日々崩れ落ちることだ。なおこのブログ記事は順番97(別プロバイダー)、そして今は724。その間を思うに、たかが数年だが、今昔の感あり。
①このNexus7はWiFi無線環境のある所でしか使用できない。当時はコンビニで無料Wi-Fiが整備されつつあった。先進地ウィーンではほぼどこでも使えて重宝した。
②今は専ら入れてある音楽を聞くのに使っている。
③パソコンで開くと文字化けするメールも、これで受けると正しく出るのよかったのだが、最近はこちらも文字化けが出る・
④何故か電池は今も健全ある。少し弱ったようだが。
▲「西南記傳」の研究作業も大詰めに来た。1877年9月22日西郷軍から使者が官軍側に送られた。以下は当時の状況を巧に描き出している。「(解説)」は私が名付けたもので、「西南記傳」編集者の自説と考える。
①(解説)初め、河野・山野田の官軍に使せんとするや、桐野は西郷を救はんとするの意裏を察し、且つ官軍の態度如何を試みんと欲し、暫らく衆議に従ひたりとは雖ども、其實、桐野は徹頭徹尾、手を束ねて降を乞ひ、瓦と為りて生を偸むの意なかりしかば、22日彼等の官軍に赴くと同時に、西郷吉之助の名を以て、左の檄を発し、最後の決心を示したりき。
今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法廷に於て斃れ候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を殘さざる様、覺悟肝要に可有之候也。
    九月二十二日        西郷吉之助
      各隊御中
②(解説)文簡なりと雖ども、「此城を枕にして決戦すべし」と云ひ、「後世に恥辱を殘さざる覺悟あるべし」と云ふが如き、亦以て其決心の既に定まれる所あるを知るべきなり。左れば、山野田の帰るに及びてや、諸将中一人の降服を主張するものなく、却て最後の決心を固うし、西郷と共に其死を共にせんことを期したりき。
◎使節は2名、河野は官軍が留め、山野田のみが23日帰された。この日の内に降服の返事をせよとの命令を受けて。西郷以下同意はなかった。そして翌24日、一方的な官軍の勝利となって終結した。