★見出しの連番が途中で変わっている2022年05月04日 21:25:46

▲朝、DELL機での作業から。
①私はブログ等にと連番で文章を作成している。表題はその文章見出しの連番に狂いが生じていて、慌ててネット情報を得ようと打ち込んだ文章の一つ。連番「593」の次は「75」から始まるようになっていたので。
②ネット情報を字句を変えつつ何度も探ることから始まった。情報のたびに様々な無駄な作業をすることほぼ2時間。もう諦めの境地になった時、番号「75」を右クリックしてから出来るらしいとの情報に辿り着いた。
③しかし、右クリックしようと「75」をマウスで囲む動きをするが、先ずそれが出来ない。何回も無駄に繰り返す。
④思いついて、連番「593」の最後に空白行を作り、そこに「75」をコピーして入れ込んだ。すると今度は「75」を囲めたではないか。踴躍、右クリックしてメニューから「番号の変更」をクリック。番号を「594」とした。すると「76」が「595」となり、以降同様に変わった。
⑤これで万々歳なのだが、少し引っ掛かった。最新ブログ等の記事の番号「774」に対して今回の訂正以後のラストの番号が「773」。これはおかしい。
▲夜、mouse機での作業から。
①そもそもは、1から774まであったブログ等の文章に、今回の一連の整理作業で見つかった「旧ブログ等」のファイルの文章を先頭に入れ込んだことが原因だった。その記事数は重複記事を除くと約60。つまり、ラストの番号は「830」前後になるはずだ。
②ナビゲーション上で18個ずつ数字を確かめる作業を繰り返す。
③何と何回その訂正作業をしただろうか。記憶にはないがほぼ10回に近い。どうして、ここから番号が違うのかと疑問を感じながらの訂正作業が続いた。
▲訂正が終わった今、この文章は「834」となっている。この作業をするなかで、得た情報もある。パソコンやハードディスク等の購入に関わる記事は既に忘れていた記憶を思い起こさせるものだった。例えは私が「37GB」(実際の容量)と名付ける携帯ハードディスクはその記事では「40GB」と記されていた。当時はそう呼んでいたのだろう。
▲画像は現主機のDELL機の前身のFrontier機。大好きでしたが、現在は隠遁中。しかしWindows10にはしてあります。記事は2010年1月29日付けです。

★Nexus7に振り廻された2022年05月09日 21:38:15

▲その夜、Nexus7にあるアプリを入れ込もうとした。突如全く機能しなくなった。ネット情報に打ち込んだ文字は「起動しなくなった」。本当は起動したのだが、アプリの画面(本日の画像)に入れないのが真相だ。どうやら今までに経験しなかった状況だが、私は疑問が優先して対策は無であった。翌日も朝から取り組んだが、どのネット情報にもピタリとした案内はない。
するとある情報が目についた。それは私がそれまでに得た情報を最終的に補完するものであった。
①Nexus7画面に黄色ワクに「Recovery mode」が出ている。ワクの先端三角は実は電源ボタンを指すと分かった。
②それを押して、次の画面が出たら(今まではここで立ち往生)、音量の小さくする方を押す。そしてメニューから「reset」選び、電源ボタンを押し確定する。続いて、「Yes delete all user data」。
③最後に、同じメニューから「reboot system now」を選ぶ。かくしてお蔭さまで再生するに至った。
▲画像は再生したそのアプリ画面。今のところは多くのアプリは絵柄はあるが中身がない。何故か分かりません。画像はスマホで撮影し、パソコンに繋ぎ、デスクトップ画面にドラッグした。
◎続きがある。直前に間違って「TalkBack」という箇所にはまり込み、動かなくなった。これはもまたネット情報でやっと切り抜けたが、これでは恥の上塗りである。ただ9年間の付き合いの中でこの2日に及ぶ格闘はまったく初めての経験であった。使い慣れて数回初期化もしていたが、実は本質は知らなかったということだ。肝に銘ずる

★新ネットブックPC(110731日)2022年05月15日 10:58:41

▲以下はあのONKYOが「倒産」・「破産宣告」とのニュースに接して、そう言えば自分がかってそこのパソコンを使用していた時期があったとして過去のブログ用の記事を探した。表題はその1つ。
●以下はほぼそのまま。
新しいPCを買った。旅行に持って行くためだ。いつもの会合の後、霧島市へ。まだこの時は気持ちが動いていた。ネットブックかタブレットか。タブレットはパソコンデータを、それも小さいサイズのデータを見るにはいいだろう。作業して打ち込むには難がある。ではどのネットブックにするか。今度は鹿児島に公共交通を利用して行く。鹿児島中央駅の大手量販店で親切な説明を受けて、某社のものにするとバッテリーが8時間、今選ぼうとするのは3時間。某社には2年限定のエクセル・ワード2010が付くと。この2点に勝ったのは私が決めたこのパソコンのキーボードだ。アイソレーション型といい、一つ一つが分離している。それに200g軽かった。ではと在庫を見に入った店員が「ない」という。「展示品は?」というと「できません」という。そこですぐバスで帰宅。車で再び朝に見に行った霧島市の店に行く。朝応対した店員がいたのですぐそのパソコンを指名。
かくして、入手したパソコンは3万円しなかった。帰って来てまず憂鬱なセキュリテイ、何せ契約1台を契約削除しないとこれにセキュリティがつけられない。ほか2,3を入れ込む。そして最後に残ったのがFONへの接続だ。何せ無線LANが表示されない。数時間考えて何とか会社のホームページにアクセスできたので、調べたらFnとF11を同時に押せば無線LANは有効になると。よく見たらFIIキーに携帯でよく見るアンテナマークが付いていた。実際FONのMyPlaceにアクセスできるまで紆余曲折があったが、6月11日付ジオログを思い出し無事終了。
写真は新パソコン。
▲画像はたぶんONKYOパソコンと考える。このパソコンは長く使うことなく縁あって若い方へ無償提供した。
▲我が現今のパソコンのうち、mouse機は最近は「サインアウト」からの終了が定着した。ところがDELL機が起動が遅くなった。そのように少し遅くにしたのだが、それにしても遅くなりつつあるような。新しく買ったSSDは相変わらず途中で切れる、その度に抜き差しせねばならない。

★西南の役研究より&パソコン2022年05月23日 12:00:20

▲1877年5月17日の鹿児島。
●「黒木爲楨 (タメモト)日記」より(鹿児島県史料「西南戦争」)
①五月十七日雨(午前十時過ヨリ午後四時過迄大雨)杜宇ヲ聞ク
②一第二大隊第一中隊兵卒木村吉次郎過テ発銃、同隊卒脇直之丞ニ負傷セシメ、入院後死スル旨届書隊長井上ヨリ差出ス、
③一今般生捕タル薩摩人共ヲ取糺ス処、謀逆ノ初ヨリ一筋ニ御国ノ為メトノミ思ヒ込ミ、其朝敵タルヲ弁ヘズシテ、張本人ニ荷担イタシ候輩モ少カラス、或ハ此節ニイタリ降参イタストモ、官軍ニテハ其罪ヲ赦サレズ杯申触スニ付、詮カタナク戦死ト覚悟候者モ有之哉ニ相聞へ、不便之次第ニ候、右様ノ儀ハ決テ無之儀ニ付、タトヒ張本人ニ与シ、一旦ハ官軍ニ刃向ヒ候者タリトモ前非ヲ後悔シ、其趣ヲ訴へ降参ヲ願フニ於テハ、其罪ヲ被免候条、一刻モ早ク理非ヲ弁へ賊軍ノ汚名ヲ免レ申スベシ、此旨相諭候事、
十年五月十五日 官軍先鋒本営
④一午前第十時、本陣ニ至ル、午後六時過本部ニカヘル、
⑤一我哨兵所前日ノ如シ、
(参考)5月5日の記事
①一午前第四時三十分、賊新照院ヨリ襲来ニ付、城山背後ノ我哨兵開戦、夫ヨリ南北ノ哨兵追々ニ戦ヒ、予軍旗ヲ護シ、我諸哨所ヲ巡検指揮ス、同七時頃賊敗走、我隊死傷四人(死二人傷二人)、賊ヲ斃ス十余名、
◎黒木は鹿児島県出身。この時は陸軍中佐。後ち陸軍大将ほか。「杜宇」はホトトギス。4月27日官軍は鹿児島の中心部に進駐して、黒木は城山防衛の任に当った。西郷軍が急きょ人吉から急行して鹿児島に入ったのは5月4日以降。数度の交戦(5月5日初戦)後、官軍は甲突川の右岸からの平地部と城山を掌握する。西郷軍は東は吉野台地、西は甲突川左岸と武岡台地ほかを占めて官軍を包囲する隊形をとった。幾多の交戦はあったが、官軍は守戦を旨とし、西郷軍もまた専ら台上からの砲戦で応じた。時には官軍が花火を上げた時は両軍共に眺め、官軍音楽隊の演奏があると聴いたという。このような状態は官軍の西郷軍への一斉攻撃が6月24日に始まるまで変らなかった。
▲mouse機は「サインアウト」から画面から終了するのがほぼ固定した。見ていると、外付けハードディスクのランプがチカチカして消えると数秒もなくmouse機も消える。
▲今の悩みは、古い(2012製)のNexus7の「バージョンアップ」ができないことだ。ネット情報のレベルが高くてムリである。メール1つ(2つ目はできていない)とネット検索、挿入した音楽を聴くことができるのでまあまあ役に立っている。
▲画像は我が家の蝶。何故か撮影時にゆっくり窓を開けても、数回シャッターを切っても、おとなしく、最後に窓を閉めると同時に去った。

★(続)西南の役研究より&パソコン2022年05月26日 22:16:05

▲私の記録では、1877年5月17日の記事では、戦闘記事を鹿児島戦、水俣・大口戦、球磨川・人吉戦、宮崎西部戦、大分戦と分類してある。
 以下はその記事の一部である。原文の数字は書替え、かな書きにしてある。■は欠字。
(1)水俣・大口戦
●17日雨大いに至る、蓋し時方に梅雨の候に属す、宜なる哉、連日晴れさること此の如し、而して敵亦た敢て来らす、毎日營窓無聊、雨簫條、杜鳴其間に悲鳴す、丈夫の鐵膓轉々、故山の情に堪えず、詩あり曰く「百戰無功壮志違、露營三月濕戎衣、杜鵑不識征人意、夜々漫呼不若歸」、余時々出てゝ哨線を巡視すれは、哨兵皆樹下石間に佇立し以て警備を嚴にす、衣褌盡く濕ふ、其苦實に想ふ可き哉【20045111】:(5)
◎官軍別働第三旅団を水俣近くまで圧した邊見率いる西郷軍は久木野、深渡瀬、大境、小川内へと大口方面へ押し戻されていた。梅雨の始まりなのか大雨が続いていた。記事は熊本隊士の日記である。
(2)大分戦
●五日(17日)雨、今日午前7時延岡町の吉崎仙大郎処出立、午後3時10分前、美々津町の紀ノ国屋へ着泊、途程8里位※美々津町(日向市美々津町、国道10・県道51・302・耳川)【20006094】:(4)
●丁丑5月17日暗旧四月五日、本日午前第7時延岡南町の宿陣を発し、此町に都合4日滞在致し、大瀬橋を渡り富高新町之手前に伊鈴川とて舟渡し場あり、さて新町にをひて昼食をす、然処雨降り出し皆■■之用意■美々津の町入口に美々津川とて、舟渡し有り、此川には大和船等も多く碇泊す、午後2時頃、美々津宿に着す、此町にも、兵隊共滞在して舟渡しに番兵相務候、今日の路は8里と云※延岡南町(延岡市南町1・2丁目、県道16)※大瀬橋(延岡市柳沢2丁目~春日町1丁目、大瀬川)※伊鈴川(五十鈴川イスズガワ、門川町門川尾末)※新町(富高新町、日向市本町、国道10・327・県道226・塩見川)【20031001】:(5)
◎大分に向かった奇兵隊(薩軍)は、既に竹田に入り、大分戦に入っていた。その奇兵隊のうち2中隊が鹿児島支援のため引き上げることになった。そしてこの日延岡を発する。その道中の様子はこの2日誌とほか1日誌に詳しい。
▲数日前2日連続、mouse機での「サインアウト」から画面から終了が失敗した。その後はまたできるようになった。
▲画像は美々津大橋から上流を写したもの(2003年)。川は美々津川・耳川という。