★次の最後の段階の研究作業へ ― 2019年02月03日 10:47:28
▲研究作業は1877年7月25日から8月17日までの分がやっと終った。エクセルで作成している「修正日記」では年末の12月27日開始していた。そして今日2月3日終った。
①地名説明のモレを追加
②地名説明は、官軍側と西郷軍側で2分して付けている。これを西郷軍側は戦闘地分類単位で地名説明を追加することにした。例えば「長井村(旧北川町長井、国道10・北川)」などは何回も登場することになった。この方が「タブレット」に入れて読みながら現地を歩くには便利だからだ。
③一般的には最後のページに並べるのであろう地名説明であるが、それに似た「地名実数」というエクセルファイルがある。今現在11,585項目ある。
④最近の訂正事例。
●※家田村(家田エダ、旧北川町長井、北川支流家田川、家田湿原)
これは読みを「イエダ」としていたし、実は地図上の場所特定はしていなかったので不完全だった。その特定はヤフー地図であった。さらにネット情報で「家田湿原」の紹介記事を見つけた。そしてグーグルマップでその語句を打ち込むと、元々マップにはなかったのに新しくマークして教えてくれた。この修正で、「枝村(家田エダ、旧北川町長井、北川支流家田川、家田湿原)」、「江田村(家田エダ、旧北川町長井、北川支流家田川、家田湿原)」の2地名も正しく修正された。ただグーグルの車は「家田湿原」案内板前は通っていないので見れなかったのは残念である。
▲次の研究作業は1877年8月18日から9月30日までの最終部分になる。メインは8月18日から9月1日まである。西郷軍の城山帰還行と追う官軍の攻防である。
①8月17日夜、それは可愛岳頂上を目指すことで始まった。
※「西南之役懲役人筆記」(鹿児島県史料「西南戦争」第四巻)
●翌17日未明官兵大挙我塁に攻撃、大小砲を連発すること雨の如し、我兵も奮戦防禦す、敵破ること能はす、道を転し嶮谷を下て同村の田中に突進す、松本某隊を率ひ馳向て直に之を追退く、薄暮西郷隆盛使を馳せて予及ひ貴嶋清・松岡岩二郎を招く、到れは則ち云、「我兵既に已に死地に陥り復生路なし、前日より一方の囲を破らんと欲して進撃已に再ひすと雖破ることを得す、最早粮米も竭き、弾薬は乏く百方策尽たり、以て如何とも為す可からす、因て各大隊の強兵を撰抜し、是を以て一方面を破らんと欲す、故に3人に先鋒指揮を命す」と、3人則ち承諾して帰り、直に精兵150名を率ひ、土人2名を嚮導とし、言語を戒め、闇夜の事なれは白紙を路傍の草木に結付、後進の目的として、午後9時頃密に永井村を発す、西郷自ら中軍を指揮し、後軍も続ひて発す、此路道官兵篝火の間を行こと数ヶ所なり、此路道険峭にして牛馬を過ること能はす、或は木の根を攀ちて躋り、敵の篝火の間を下る、其艱難云ふ可らす、漸く3里許行く、桐野・邊見馳来り云ふ、「官兵の篝火甚熾なれは、暫時此地に兵を按し、全軍一時敵塁を衝破ん」と云ふ、貴嶌及ひ予答て曰ふ、「我等先鋒の任を受を以一歩も止む可からす、唯た進死あるのみ」、不肯して進み行く数丁にして官兵中軍の間を絶つ
※永井村(長井、旧北川町長井、国道10・北川)
◎この記録と類似の内容のものが幾多あるが、少しづつ違っており、今すぐに正解は出せないが、基本的な部分は共通していると思う。
①地名説明のモレを追加
②地名説明は、官軍側と西郷軍側で2分して付けている。これを西郷軍側は戦闘地分類単位で地名説明を追加することにした。例えば「長井村(旧北川町長井、国道10・北川)」などは何回も登場することになった。この方が「タブレット」に入れて読みながら現地を歩くには便利だからだ。
③一般的には最後のページに並べるのであろう地名説明であるが、それに似た「地名実数」というエクセルファイルがある。今現在11,585項目ある。
④最近の訂正事例。
●※家田村(家田エダ、旧北川町長井、北川支流家田川、家田湿原)
これは読みを「イエダ」としていたし、実は地図上の場所特定はしていなかったので不完全だった。その特定はヤフー地図であった。さらにネット情報で「家田湿原」の紹介記事を見つけた。そしてグーグルマップでその語句を打ち込むと、元々マップにはなかったのに新しくマークして教えてくれた。この修正で、「枝村(家田エダ、旧北川町長井、北川支流家田川、家田湿原)」、「江田村(家田エダ、旧北川町長井、北川支流家田川、家田湿原)」の2地名も正しく修正された。ただグーグルの車は「家田湿原」案内板前は通っていないので見れなかったのは残念である。
▲次の研究作業は1877年8月18日から9月30日までの最終部分になる。メインは8月18日から9月1日まである。西郷軍の城山帰還行と追う官軍の攻防である。
①8月17日夜、それは可愛岳頂上を目指すことで始まった。
※「西南之役懲役人筆記」(鹿児島県史料「西南戦争」第四巻)
●翌17日未明官兵大挙我塁に攻撃、大小砲を連発すること雨の如し、我兵も奮戦防禦す、敵破ること能はす、道を転し嶮谷を下て同村の田中に突進す、松本某隊を率ひ馳向て直に之を追退く、薄暮西郷隆盛使を馳せて予及ひ貴嶋清・松岡岩二郎を招く、到れは則ち云、「我兵既に已に死地に陥り復生路なし、前日より一方の囲を破らんと欲して進撃已に再ひすと雖破ることを得す、最早粮米も竭き、弾薬は乏く百方策尽たり、以て如何とも為す可からす、因て各大隊の強兵を撰抜し、是を以て一方面を破らんと欲す、故に3人に先鋒指揮を命す」と、3人則ち承諾して帰り、直に精兵150名を率ひ、土人2名を嚮導とし、言語を戒め、闇夜の事なれは白紙を路傍の草木に結付、後進の目的として、午後9時頃密に永井村を発す、西郷自ら中軍を指揮し、後軍も続ひて発す、此路道官兵篝火の間を行こと数ヶ所なり、此路道険峭にして牛馬を過ること能はす、或は木の根を攀ちて躋り、敵の篝火の間を下る、其艱難云ふ可らす、漸く3里許行く、桐野・邊見馳来り云ふ、「官兵の篝火甚熾なれは、暫時此地に兵を按し、全軍一時敵塁を衝破ん」と云ふ、貴嶌及ひ予答て曰ふ、「我等先鋒の任を受を以一歩も止む可からす、唯た進死あるのみ」、不肯して進み行く数丁にして官兵中軍の間を絶つ
※永井村(長井、旧北川町長井、国道10・北川)
◎この記録と類似の内容のものが幾多あるが、少しづつ違っており、今すぐに正解は出せないが、基本的な部分は共通していると思う。