★DELLに言われて再起動したら2020年05月03日 02:04:52

▲旅の記録を修正する作業中であった。DELLからアップロードの誘いがあった。それ自体は作業と並行したのでよかった。ところが「再起動」を求められた。「後でする」ことにして作業を優先し、一応の目途が立った段階で、再起動へ。普通は念のためにいつものように本体だけでは不安で、OneDrive、2つの36GBへ保存、その後で全て終了してから再起動へとなるが、今日はいきなり再起動に。2段組のタスクバーには5フォルダー、4ファイル、ネットアクセス4つが並んでいたのに。
 再起動後徐々に2段組が回復されてきた。しかし、ワード1ファイルは1ページ目に戻っていた。エクセル2ファイルはそのまま復帰。ネット関係も同じく元に戻った。ところが5つあったフォルダーは全滅。そこでDELLへ提言する。そのままそっくり完璧に元に戻してくれ!!
▲珍しく新聞記事が気に入った。「最悪を想定しない国民性」という字句が気になり読み進めた。以下その引用。記事の真意を伝えれるか心配だが。
①「祝言を発すれば吉事が起こり、不吉な言葉を発すれば凶事が起こると信じられている。」
②先の戦争指導部では‥‥「わが軍の作戦が全部成功して、敵の作戦がすべて失敗すれば、皇軍大勝利」という‥‥参謀が重用され‥‥
③「東京五輪は開催される」‥‥(組織委の中で)「されないかもしれない」という人はいたろうが、「不吉なことを言うな」と一喝されることがわかっていた。
※ほかにも今回のコロナ感染問題にも触れてあって久しぶりに痛快な記事と読み込んだ。保存しておこう。
▲画像は46日間の旅の最後の記録。グーグルストリートビューでのお遊びをお勧めする。

★記録見直し作業一応終わる2020年05月28日 10:26:50

▲記録の見直しで大変だった。何せ私が旅の中で見た風景は13年以上前のことである。記録に残した地名等で一番頼りになるのはお寺や神社。これはほぼ改廃はない。また郵便局も今のところほぼ変わりはない。農協と信用金庫は統合・改廃、そして何と長ったらしい名前になるんだろう。一番改廃されたのは道脇の道標(みちしるべ)や貴重な説明板である。私の撮影した4000枚余の写真に残る風景は今や過去の生き証人となっている。ただ私の家周辺ですら、古い家は次ぎ次ぎと新しく変わる。店の改廃も激しい。平成は昭和まで残ったよきものを全て捨て去ったのか。
▲相変わらずパソコンのこと。
①パソコンでブツブツ言いながら(「何で変えたんだ」)地名等を訂正しながら作業する。そして私がキーボードに触れる。そのタイミングでワードは自動保存作業を勝手に始める。当初10分毎の作業を少し遅らせたのだが。しかもその後私が触れると日本語変換が消えていて、コツは何でもいいから別ファイルにアクセスすると元に戻って、右下に「あ」がある。
②エクセルは時々打ち込みができなくなる。どうやら別のファイルで作業したから、まだこちらは動きませんということのようだ。これも同じようにすると動くようになる。
③今DELLのサポートを受けてインストールする作業するが、これがイマイチ分からない。そのうち再インストールにでもなるのか。DELL機への一番の不満はバッテリー交換が簡単には、いやいや個人ではほぼできないことだ。もっともデスクトップ代替として購入したのだからまあいいかと電源コード一式は予備を買ってある。
▲画像は5月13日の開聞岳。前後撮影した画像の中でこれが最上の映り具合でした。
特攻機に乗った若者がここを周回して向かったのではあるまいか。

★久しぶりの西南の役資料では2020年05月29日 20:17:06

▲この資料フォルダー名「✖幻のファイル190829」は一応終結した資料を再度見直すための資料が含まれている。画像に見える「(非提供)」のフォルダーを始め、無料配布したCDにはないフォルダーやファイルもある。紫色部分のエクセルファイルはプリントスクリーンで写り込んだ。敢えて排除せず。
●画像のエクセルファイルは私が収集して編集した「日記・日誌」である。そのシート名「鹿・宮・熊日誌等1224」の一部分である。一番のメインである。
●右下の緑色部分はここをクリックすればハイパーリンクして原本資料に直ちにアクセスする。つまり確認できる。私の資料の最大のサービス部分である。
●ところが全く機能しない。実はほかの2エクセルは同じことが何ら支障なくできるのに。おかしいのはこのファイルのみ。
●そこで修正にかかる。「ハイパーリンクの編集」をクリックして画像黄色部分を出す。修正ポイントは赤色部分である。
●結論から言えば、ここに一番上の黒色部分をコピーして、貼り付ければいいのである。
●作業始めに、先ず修正すべきハイパーリンク箇所をフィルター機能を使ってまとめる。すると53件の資料のハイパーリンク部分53セルが出る。緑部分にその痕跡が見える。
◎画像は作業開始から15番目の資料だ。黒色部分に「¥15日記・日誌著者001.pdf」が見える。
 この時までは先ず赤色部分を最後の部分から一文字づつ消す、これがまた長い。次に青色部分をクリックして出た53の資料から15番目を選んで、赤色部分にコピーする。ここまではこの作業を繰り返していた。
 そこで気づいた。赤色部分がいつも薄い青色付きである。これは「Delete」キーで消せるはずだ。その通りだった。先ずこれを消す。そして黒色部分をコピーして赤色部分に貼り付けて見た。すぐハイパーリンクを試してみる。見事成功。
 以後作業が急ピッチに進み終わった。
▲以下は最後に作業した53番目の資料から。残念ながら資料として有効活用はしていない、理由は「日付」が付けられないからである。
※一部人名のみ残す。
1.明治六年之際参議兼陸軍大将西郷隆盛陸軍少将桐野利秋同少将篠原国幹在職中、征韓論相発シナラズシテ終ニ辞職スルニ本官許サレテ非役ト爲リ帰県セラレシニ近衛兵大、中少尉初メ兵卒ニ至リ数干名隨意シ■■■帰県ス
2.而シテ旧御厩跡ニ学校ヲ設ケ其徒類ヲ生徒トナシテ出サシム其校名所謂私学校ナリ
3.然ルニ生徒ヲ弘メンガ爲カ右校員ヨリ各郷々区長トナシ分役セシムルニ追々生徒モ増シ各郷ヘモ支校建設トナル
4.而シテ何斗ナク県下ノ形勢穏カナラズシテ壮士輩ノ者ハ何レカ方向ヲ定メズシテハ相成ラザルノ形勢ニタチ至リ吾郷ニモ区長(人名A)副区長(人名B)拝命入郷シ追々入校ヲ進メントスルノ際事故アリテ免官トナル、
5.代リテ池上四郎区長(人名C)副区長拝命セラレ我モ入校ヲ進メラレケレドモ素ヨリ規則モ不分明ナルヲ以テ一朝一タニ返答イタシカネタル折節知事公ヨリ設立ノ学校開校名称温古堂ナリ、
6.志願ノ者ハ入校許可相成ルベキ旨、(人名D)ヨリ我郷へ報知セシニヨリ、(人名E)、(人名F)、(人名G)、(人名H)、(人名I)其他談判ノ上名簿等取仕立、(人名G)、(人名H)両名出身御家令内田政風、(人名J)へ相ツキ歎願セシニ直チニ許可相成リ、御書付等相渡リ、追々志願ノ者アラバ其郷校員ノ詮議ノ上入校許スベキヲ達セラレシニ依リ、追々生徒モ増シ二百余名ト相成リ、本校ヘハ報知トシテ(5名略す)出ヅ、
※以下番号11までは日付が付けられない部分が続くが略す。この資料は12番目から資料として生かしている。日付は1877年2月15日である。西郷軍が熊本に向かった日である。