★地名解明に苦みながら2022年09月02日 02:07:37

▲安政2年9月12日 1855年10月23日(月)
(後半部)此處ニテ昼飯仕廻人馬継少シ行テ左ニ西尾トイフ道吉良等エノ道有天文拾一年八月十日今川義元織田信秀ト合戦アリシ處トイフ其ヨリカンバサキニシバラク立場セラタ高ハシ大平川小橋大平茶屋エ立場ヤスム其ヨリスジカイ橋カケノ郷此ノ所ハ岡崎宿出迦立場ヨフヨフ夜入四ツ過岡崎ノ泊宿マデ着ナリ
①カンバサキ・セラタ・スジカイ橋・岡崎宿についての作業結果。
●カンバサキ(神馬崎、東・西神馬崎、愛知県岡崎市岡町字西神馬崎南側、国道1号岡町神馬崎交差点)
●セラタ(世良田セラダか、不明、愛知県岡崎市)
●スジカイ橋(筋違橋スジチガイバシ、愛知県岡崎市大平町字欠下、更紗川)
●岡崎宿(オカザキシュク、愛知県岡崎市伝馬通1~5丁目ほか、本陣2・旅籠115:大・中・一人宿、53次38)
②私の頼りは平凡社の「日本歴史地名大系」電子版である。上の4つはどれも検索できなかった。「カンバサキ」は地図ソフト「マピオン」で偶然発見、すぐグーグルストリートビューで交差点を確認した。「スジカイ橋」も同じ方法で確認した(本日の画像)。頭に来たのは「岡崎宿」、平凡社版は他の多くの宿場は「○○宿」で説明があるのに、これはなかった。上の内容はいろいろな情報をまとめて、他の宿みたいに作ったものだ。表記の統一をお願いしたい。
▲本日の画像は右は私が歩いた時の写真。左はグーグルストリートビューで作ったもの。赤囲い部分でご推測願いたい。作業は今は日記の人物の京都見物記事にある寺社等のまとめである。「音羽山清水寺」の「音羽山」はすぐ後ろの山ではなく、全く離れた位置にあった。

★研究作業報告2022年09月10日 01:22:29

▲先ずは久しぶりにmouse機の「終了」時の状況を記す。「サインアウト」から終了するのに2回連続失敗したので、今は「スタート」クリックから通常の「電源」ボタンをクリックして終了する方式(正式と呼んでいる)でうまく行っている。時々「ファイルが‥‥」と身に覚えのない警告が出るが。
▲大きく構えれば、江戸時代の日記に出て来る地名を抜き出している。今は島津斉彬に随行して参勤交代の状況を記した「山田」の記録を追っておいる。画像は「中山道(中仙道)」を下国中の最初の部分である。日付単位の地名を先ずは並べる(画像)。タテに3つ並べてから順番に入れ込む。
▲「山田」は嘉永5・6・7(安政1)の連続御供した人物で、彼の家族は江戸にいる。その証拠は以下の文より。
●(嘉永6年)六月廿二日、晴、八ツ半時出立、水上御茶屋江差越、待上居る、是より惣御供ニて着、
苗代川御立、諸所御小休、横井
御休ニて、九ツ過御機嫌能御着城、
一宇都宮彦四郎水上迄、野口利右衛門横井迄為迎入来、平太郎事昨日より先江遣候事、
一御着後御祝儀申上、毎之通御祝之御酒肴御賄迄も頂戴いたし、七ツ比築地御用屋敷御長屋江無滞着致候事、
◎彼の自宅は「築地御用屋敷御長屋」、藩の御屋敷である。
●(嘉永7年)●三月五日、晴、戸塚御定刻御立、御供相勤候、川崎御休ニて代合、御先江品川江着、本宿之坂もと屋なり、
一加奈川巷之玉川屋江御小休ニて、前海江碇泊之異国船初て見物す、
一川崎御休江中山善太夫殿・水谷殿父子・山田五六郎父子・森覺之丞父子・高橋榮格・平并善朴・西尾新兵衛・鷺仁右衛門・谷口月窻等参上、御逢被遊、いつれも品川御泊駅江参上いたし候様依御沙汰申聞候事、
一新之助并山田半之丞川崎迄為迎入来、同道いたし、山本ニて昼飯為給、旅宿江留申候事、
一為御迎参上人段々有之、其外御休江参上之面々一同被召出候て、御側ニて御酒等被下候、西尾新兵衛殿ニは別段被仰付候義有之、私宅江召呼食事為致、駕籠等手当いたし、下行も遣候て被差帰候、
◎親族・友人が多勢迎えに来た。彼は斉彬の若い時から江戸で仕えていた人物であった、

★研究作業報告(トガヒ坂を調べたら)2022年09月16日 00:31:30

▲今は天保12(1841)年に薩摩と江戸を往復した人物の日記を記録再生中である。彼の旅の哲学は「帰りにゆっくり見よう」である。だから江戸へ向かう記録は楽な作業だと思うことにした。この日は表題の「トガヒ坂」で私は散々苦労した。「トガヒ」は「とがい」。ネットでは「戸貝」(人名)と出た。「日本歴史地名大系」は「○○戸貝塚」で出た。グーグル地図に戻って熊本市北区植木から豊前街道らしき道を見て行くと、見た瞬間に「コレだ」と確信した。地図には「豊前街道 乙貝坂」とあった。ヒントは前の文にある二つの「戸貝」の「貝」であった。
●原文は以下の通り。前後略す。
(略)
 植木
 壱里計してミとり町ニ出る、暫行けは結ぶ之茶屋、トガヒ坂を上
 り、廣野町ニ出左之方ニめのふ嶽・三之嶽ミゆる、郷田原を通り
 浦山口之坂を下り、畠之中ニ芝居舞臺相見得候、六拾間計之土橋
 を渡ル、是菊地川なり、
(略)
◎「トガヒ坂」は原文の通り。単なるミスと考える。私もよくやる。
▲本日の画像はグーグル地図にあった画像と私がストリートビューで作成したもの。
 そこで2つをペイントで並べて再度PrintScreen。1枚にした。いつものように画像縮小ソフトを立ち上げた。いつものように出来なくなっていた。不要なソフトをダウンロードさせられるようになあったのであきらめた。再々度ペイントに入れて75%に縮小した。

★「薩摩街道」をまとめたが2022年09月21日 23:48:41

▲いつものようにmouse機の終了状況、「スタート」からも「サインアウト」からも時々シャットダウンが失敗するのは変わらない。
▲表題は薩摩街道の福岡から鹿児島までの平凡社「日本歴史地名大系」の関連記事を見て、全く想像もしなかった地名等にビックリ。これを福岡から系統的に並べて、さらに今集めている昔の日記の記事を追加してみようと始めた。いわば完璧な(?)「薩摩街道」記事が出来上がる訳だ。使うソフトはエクセルである。
▲この日一応の完成を見た。
①総件数166、うち最初(番号1)と最後(番号166)は起点・終結のまとめ文だ。
②福岡県14件、熊本県103件、鹿児島県57件、計164件。
③熊本県が多いのは距離もあるが、一番は平凡社「日本歴史地名大系」上での特徴にある。熊本県の「薩摩街道」記事には坂名・川名が実に細かい。しかも地図ソフトにはほとんど出ていない。福岡県では「矢部川」と件名をわざわざ追加したぐらい少なすぎる。
◎この項をまとめたい。東海道は宿場「○○宿、本陣‥‥」とほぼ似た表記だが、九州にはほぼそれはない。平凡社は統一すべきではないのか。グーグルマップはよく東海道の文字が地図上に出る。しかし九州ではこれはほぼ見当たらず。グーグルもっとがんばってくれ!!
多分、件名を追加する予定なので総件数は200に近ずくだろう、
▲狙いは台風の始末も済んだ我が家の庭園に来た蝶だった。黄色に黒模様がきれいだった。ニコンをスタートさせて近ずく。途端に飛び立った。そこで今日も咲いた芙蓉を撮影した(今日の画像)。

★島津斉彬、参勤の旅へ2022年09月24日 07:41:19

▲史料は鹿児島県史料斉彬公史料。
正月二十一日 辛酉
(略)
 二時マヘ九時二分過着
 横井休 二時過四時立
 壱里六町三十六問
 三時過六時着
 五本松 四時マヘ八時立
  壱里半十五町十八間
  六時マへ五時
  苗代川着
一着直ニ鶴亀ノ舞例ノ如シ、
◎ここで困ったのは「五本松」だ。ご丁寧にも「五本松」をOCRが「五木松」としていたからなお手間取った。「五本松」はここにあった「御茶屋」を鹿児島市の「玉里」へ移築したとの記事はあったが、地名そのものの説明はなかった。この日偶然に、マピオン地図に五本松バス停を見つけ、そこをグーグルストリートビューで確認、そして、国土地理院地図も加えたのが本日の画像。画像中の赤線は私が鹿児島市から伊集院へ向かって歩いた時のコースだ。それが旧来の道と考えている。その道は九州新幹線の上を通過して下る。
 斉彬のこの記録は距離と時刻を記す。旅には時計職人も連れていた。ただこの記録は鈴鹿峠を下った坂之下宿で途切れる。理由は不明。時刻の表示は各自解釈あれ!!
▲明治10(1877)年9月24日は西郷隆盛以下の諸氏が城山で戦歿した日である。ついでに令和4(2022)年9月24日は22日に来る予定の「日経パソコン」がまだ届いていない。