★久しぶりにブログを書く2023年08月22日 10:23:34

▲この表題の「ブログ」に反応した我が辞書は「1994」という「yahoo」時代のブログ名を出してきた。即今のブログ名に切り替えた。現在の辞書数は4324個(DELL機)。記憶では5000以上あったはずだが。
▲私の西南の役での西郷軍の研究は参戦者の記録。その主は県資料の「西南戦争第2巻」と「西南戦争第4巻」である。ここに西南の役後に懲役刑に処せられた兵士の名前がある。彼らは全国各地に分けて配流された。そして一斉に戦争中の記録を命じられた。それが「西南之役懲役人筆記」である。詳しいもの、簡単なもの、そして何人かでまとめて書かれたものなど形態は様々だ。私は今まで戦争中の状況を見ることを主眼としていたので、まとめて書かれたものは代表者1名のみを重視していた。
①今の作業である「戦没者」の資料と重ねて考えるには、記録者の複数の人名全てを知ることが必要になった。西南の役が1877年9月24日終りとなり、ある人物が故郷に帰ったらすでに墓が出来ていたという事例が少なからずある。
②上記2書から資料を作成したなら、その資料の元々の筆記人を知るべきだろうと考えた。
③ここ2週間以上の前半は「戦没者」情報の再点検、後半は「筆記人」の確定に挑戦した。確定した結果は懲役に服した全員であり、その総数は今のところ1374名である。再度の点検は後日のことにする。
④「戦没者」の表「●西郷軍戦死まとめ230817」の総数は延べ26899名であるが、上記「西南之役懲役人筆記」のうちの1092名が含まれる。いずれは全て入れ込む。今のところは「戦没者」の氏名は幾つかの資料で重複しているので、正確な「戦没者」数は推定の域を出ない。先行して研究された「ご両人」の資料を重視しながら精査していくことになる。
▲西南の役150年は2027年である。「戦没者」数についてはすでに大正時代(1912~1926)でさえ明らかにされていない。今となってはとは思うが、今が最後の挑戦であろう。諸氏よ、ご賛同あれ!!
※今の悩みは、資料に出てくる人名だ。左「衛」門か左「衞」門か、「伝」右衛門か「傳右衞門」か、「弥」か「彌」か、「斎藤」か「齋藤」か。これらはエクセルで検索する時に正確に表出されないから困る。
▲生成AIとは結構お付き合いしている。但し、結果として私の研究成果をネットに並べるのはお断り。勝手に利用されるのは困るから。せいぜいCD・DVDで配付していくのみ。配付された方がどうされるかまでは規制できない。
▲画像は「西南之役懲役人筆記」者全員把握のため作成したエクセルファイルの最後の部分。

★生成AIを使用して2023年07月29日 01:16:52

▲私が使用するのはマイクロソフトのEdgcのBingだ。
①以前私の西南の役研究上の課題である「不明地名」の「木挽町」について尋ねた。今回また同質問をお願いした。
〇質問:
明治初期、熊本城下にあった木挽町はどこにあったか。
〇AI回答:
木挽町は、熊本城下の中央区にあったそうです。また、古地図コレクションで公開されている明治期の地図によると、木挽町は現在の熊本市中央区の植木町付近に位置していたようです。
〇私の解釈:
「熊本城下」ではなく、「東京都中央区」に「木挽町」はある。また熊本の「植木町」は、「熊本市北区」である。ところで東京都に「植木町」があるかは調べていない。
②私は懲りずに、今も大いにAI様々である。以下はその成功例である。
〇質問:
明治初期に熊本県玉名にあった岡村の位置は?(数日前実施)
〇AI回答:
明治初期に熊本県玉名にあった岡村の位置は、現在の玉名市岡村地区にあたります¹。明治初年時点での玉名郡内の村は以下の通りで(この部分略)、岡村は含まれていませんでした。
〇不明地名「岡村」次のように変えた。
※岡村(岡オカ、玉名市玉名岡、岡バス停、県道6号・玉名大神宮)
▲画像は蝶。何枚も撮影したが、その中でこれを選んだ。飛び方に元気がなく、熱中症にでもなったか?

★Surfaceに入れた音楽を聴く2023年06月18日 04:11:06

▲画像はその写真。Surfaceから3mのUSBコードとスピーカーを繋ぐ。それは本来は音楽専用機となったFrontier機に繋いであるのだ。新聞とイスは背景を見せぬ工夫。イスは大分前に買ったもので、鹿児島地裁にあったものと聞いた。2脚あったが現存はこの1脚のみ。
▲Surfaceに関する最後の課題は、本体・キーボード・マウス・電源・四個口のCタイプ(キーボード・マウス用USBセット済み)・USB8GBメモリを収納するバッグだ。大きさは縦30cm×横20cm×幅2~3cmが必要だ。現物と段ボールで作った型紙を手に探しに出かけた。イオンタウンの数店のカバン店には該当するサイズの品はなかった。ニシムタにはピッタリと思われるバッグがあった。店員に聞くと、「これは別のバッグとの組み合わせ販売の品です」と。かくして最後に頼ったのがタイヨー西加治木店だ。そこのカバンコーナーで見つけた。念のため実物を入れ込んで試した。肩に斜めに背負うタイプで、「adidas」とあった。しかもこの日は50%引きだった。
▲西南の役関係の本に必ず登場するのが「私学校」だ。有名なのは鹿児島市にあったそれだ。実際は鹿児島県下各地にあったのだが、場所等は明確ではない。たまたま私の「不明地名等」調査ファイルに「今和泉郷私学校」があった。私はこれはすでに訂正したものと考えていたのだが。そこで改めて調査することにした。
 ここから主役はMicrosoft の「Bing」になる。
① 先ず「私学校」総数を「136」と出た。
② さらに「指宿市岩本」・「市立今和泉小学校の前身」・「岩本2739番地」と。
③ さらにサービスとして、「今和泉島津家」、「篤姫の生地」ほか。
◎②と③は良い。ただ①の「136」は多すぎる。しかし私には反論できる力はない。
※最初の画像説明部分を除き、それ以下は全てSurfaceで打ち込んだ。何故かマウスが自由に動けぬ、3~4行目前までである。キーボードの矢印キーに頼ることになった。

★SurFace続きほか2023年05月30日 17:46:33

▲この機の為にヤマダでUSBのCタイプの4穴ものを買った。それにmouse機用のBluetooth発信器USBを挿し込んだ。するとマウスとキーボードが使えるようになった。便利にはなったが、毎度この作業を繰り返すのは面倒である。数千円もしない機器なので買えばいいのだが、そうすれば、DELL機のそれと合わせて3つとなる。
 またエディオンで某セキュリティソフトを購入した。箱を確かめもしないで開封、唖然・あ然・残念。期待したCD版ではなかった。弱った。ネットからダウンロードする方式だった。しかし何とかダウンロードして規定の字句・数字を打ち込んでどうにかセキュリティが可能になった。勘違い、思い込み、確認しないで購入したのは凡ミスだった。
▲私は西南の役資料中に1000以上の不明地名等を抱える。その解明はほぼ限界に達している。そこで試しにAIを使い始めた。すぐ簡単にできるのはMicrosoft Edgeの「Bing」である。今回は「一○○」と3文字の名の宴会場らしき建物である。「明治10年の頃にあった」として教えを乞うた。すると私も収集している「鹿児島市史」を根拠として解答してくれた。確認作業をしたが、その「一○○」に合致するものはまだ未発見。分かったことは1つ。AIは「鹿児島市史」を熟知しているのだということだ。私の西南の役資料もネット情報にすれば、同様に熟知されてしまうのであろうとの心配を裏付けてくれた。やはり個人にCD・DVDで配布する方法が正解であろう。
▲画像は庭に来たトンボ。最初慌てて金網越しに数枚連写。本当はその必要は無用だった。トンボは何故か、少しは位置が変わるが、ほぼ10数分ここに留まって動かなかった。トンボのかかる長時間の滞在は私には初めての経験。私にはトンボをいつ撮影したのかの記憶すらない。

★戦没者資料に3資料を追加した2023年04月27日 10:55:00

▲作成完了した西南の役戦死者名簿に新しく3資料を追加した。つまり1~14までの資料の下に「15」の「城山西郷軍」290名(仮称:元資料不明ながらも最後の部隊編成)、「16」の「城山籠城軍」466名(仮称:県図書館「鹿児島籠城記」)、「17」の「西南之役懲役人筆記」1518名(「西南戦争第二巻・第四巻」)を追加した。特に「17」は戦没者はいない、戦後を懲役人として刑に服した人々が命令されて戦闘等を記したもので、戦没者資料にふさわしくない。しかし私は「15」と「16」の資料にある人名のうち、「17」にその名がなければ、戦没者と仮定できると考えた。
①「15」の290名のうち「16」と重複する人など数名が「17」と重複した。つまり戦没者ではないことになる。
②「16」は数名の人を除いて皆が「17」に、それも何故か「東京府」の市ヶ谷(現在防衛省)に収容された「懲役人」。中には私が日記から「戦死」として名簿に書き込んだ人物(戦中に行方不明となり戦死と見なされていた)もある。
▲上記の作業過程で、
①「16」の人物名A・B・C・Dを元にフィルターすると必ず「東京府」の人物名A・B・C・Dとなるのである。つまり「16」の人物名は「東京府」の懲役人名と並び方が一致する。時にはC・A・B・D等の場合もあるが。
②そこで、私は「16」の人名は、「東京府」の懲役人の名簿から作成されたものであり、決して城山に集結した時の名簿ではないと考える。資料の「籠城」なる語句を私が勝手に誤解していたのだ。
③「15」の「城山西郷軍」の290名の一部幹部を除いて、ほとんど懲役人としては登場しない。9月24日を含めた戦死人員は72名。残りの218名のその後は不明。
◎懲役人の配置があった府県名全てに「西南之役懲役人筆記」が残っているわけではないので正確な記述はできない。
▲画像は今年初めてのまともな(?)蝶の写真。シャッターが外れるニコンで撮影した。