★西郷軍、鹿児島城山へ帰る ― 2016年04月20日 01:04:34
▲1877年9月1日、西郷軍は終に鹿児島に帰着する。鹿児島にいた官軍は巡査、海軍兵士、新撰旅団兵士でいずれも戦闘に不慣れな者ばかりで、急きょ米蔵(こめぐら)(現鹿児島市役所)に籠城する形を取った。だからアッという間に私学校や県庁、そして城山まで数時間で占拠され、市中に西郷軍兵士が満ち溢れた。以下ある人物の記録より。少し読み易くした。
●3軍(前軍・中軍・後軍)ことごとく鹿児島に向って発し、西郷もまた発す、野村が残兵を検するとわずか20余人、軍糧20嚢(ふくろ)に充たず、野村守るべからざるを量り(※蒲生城固守を命じられていた)、急に西郷に告げてなお指揮を奉ぜんと追尾すれども遂に達せず、空しく蒲生に帰る、時に衆議この地を捨てて断然先鋒に加わらんと勢い制すべからず、野村曰く「子等想う所をなせ、余単身止(留)まらん」と、衆皆共にせんと乞うて止まず、野村止むことを得ず、蒲生を発して後軍に加われり、
●中軍が吉田に至るや官兵廻りてその背後を断つ、これによりて後軍進むこと出来ず、前・中軍は進んで吉野に抵る、この時官兵既に吉野学校の側らに出てしきりに我軍を撃射す、ここにおいて中軍をしてこれを拒がしめ、塁を実方に築いて守る、やがて前軍鹿児島に達す、時に官兵一大隊余旧厩内にあり、隊伍を散し銃を置て憩う、我兵これを知らず、門に抵りて初めて大軍あるを知り、躊躇急に迫らず、官兵もまた大いに驚愕す、我軍刀を揮って突入し、縦横奮闘、激戦暫時、官兵遂に潰敗、骸を踏みて逃走す、我隊長堀與八郎・市来連・阿多荘五郎等戦没し、邊見十郎太頭上を傷つく、時に佐藤三次は30余人を率い城山を攻撃す、官兵よく拒ぎたやすく抜くこと出来ず、佐藤は本営に到り、なお10余人の兵を率い、敵背に出て、前後より夾撃し、遂にこれを陥れ、我兵入ってこれを守る、時に壮士四方より来会し、勢いすこぶる奮う、よって鳥越・愛宕山・祇園ノ洲に配賦守備せしむ、貴嶋・伊東・神宮司等中教院を本営となし大砲・臼砲を得たり、この際人民奔走、男女を論ぜず、官の弾薬を奪い先を争って来り贈る、該夜12時の頃後軍また到着す
※吉野(鹿児島市吉野町、県道16・215)※吉野学校(鹿児島市吉野町、吉野小学校)※実方(サネカタ、鹿児島市吉野町、稲荷川)※旧厩(私学校、鹿児島市山下町、鹿児島医療センター)※鳥越(鹿児島市稲荷町、国道10・鳥越トンネル)※愛宕山(鹿児島市稲荷町)※祇園ノ洲(祇園之洲、鹿児島市祇園之洲町、国道10の一部)※中教院(鹿児島市東千石町、西本願寺別院)
●3軍(前軍・中軍・後軍)ことごとく鹿児島に向って発し、西郷もまた発す、野村が残兵を検するとわずか20余人、軍糧20嚢(ふくろ)に充たず、野村守るべからざるを量り(※蒲生城固守を命じられていた)、急に西郷に告げてなお指揮を奉ぜんと追尾すれども遂に達せず、空しく蒲生に帰る、時に衆議この地を捨てて断然先鋒に加わらんと勢い制すべからず、野村曰く「子等想う所をなせ、余単身止(留)まらん」と、衆皆共にせんと乞うて止まず、野村止むことを得ず、蒲生を発して後軍に加われり、
●中軍が吉田に至るや官兵廻りてその背後を断つ、これによりて後軍進むこと出来ず、前・中軍は進んで吉野に抵る、この時官兵既に吉野学校の側らに出てしきりに我軍を撃射す、ここにおいて中軍をしてこれを拒がしめ、塁を実方に築いて守る、やがて前軍鹿児島に達す、時に官兵一大隊余旧厩内にあり、隊伍を散し銃を置て憩う、我兵これを知らず、門に抵りて初めて大軍あるを知り、躊躇急に迫らず、官兵もまた大いに驚愕す、我軍刀を揮って突入し、縦横奮闘、激戦暫時、官兵遂に潰敗、骸を踏みて逃走す、我隊長堀與八郎・市来連・阿多荘五郎等戦没し、邊見十郎太頭上を傷つく、時に佐藤三次は30余人を率い城山を攻撃す、官兵よく拒ぎたやすく抜くこと出来ず、佐藤は本営に到り、なお10余人の兵を率い、敵背に出て、前後より夾撃し、遂にこれを陥れ、我兵入ってこれを守る、時に壮士四方より来会し、勢いすこぶる奮う、よって鳥越・愛宕山・祇園ノ洲に配賦守備せしむ、貴嶋・伊東・神宮司等中教院を本営となし大砲・臼砲を得たり、この際人民奔走、男女を論ぜず、官の弾薬を奪い先を争って来り贈る、該夜12時の頃後軍また到着す
※吉野(鹿児島市吉野町、県道16・215)※吉野学校(鹿児島市吉野町、吉野小学校)※実方(サネカタ、鹿児島市吉野町、稲荷川)※旧厩(私学校、鹿児島市山下町、鹿児島医療センター)※鳥越(鹿児島市稲荷町、国道10・鳥越トンネル)※愛宕山(鹿児島市稲荷町)※祇園ノ洲(祇園之洲、鹿児島市祇園之洲町、国道10の一部)※中教院(鹿児島市東千石町、西本願寺別院)