★パソコン&研究作業から ― 2018年12月27日 21:35:11
▲パソコンのワード・エクセルの意地悪も気にしなくてよくなった。あの消えたり、再起動したりは全くなくなった。何かの拍子にIMEが「無」に戻るのも慣れた。
ただ用心はしている、細目にドロップボックスに保存、時にはさらに携帯用ハードディスクにも保存している。これだけは緩めないで守るつもりだ。
今は、デスクトップ機(2010年購入)は使用していない。最新型の一つ前の機種の値下がり待ちである。昼間は暖かい広縁に付行き、デスクトップ機で使っていたディスプレイに携帯ノートを繋いで作業している。広縁の半分は冬場は家人の園芸物が占めており、共存共栄をしている。
▲1877年7月24日、アッケなく都城は陥落した。
◎鹿児島県史第3巻
●七月廿四日、官軍四箇旅団一梼に進撃し、別働第三旅団は財部の西郷軍を破り、午前十時先登都城に突入した。別働第一旅団は払暁岩川を発し、前夜岩川より退却した邊見・相良の部隊の不意を衝き、激戦の後之を破り、正午都城に入り、第四旅団は通山を攻撃、中島健彦の率いる振武隊を破って十一時都城に入つた。最左翼第三旅団は先づ平原の敵を破り、庄内に進み、防守の堀興八郎(河野主一郎とも)指揮の雷撃・干城・正義・協同等の混合部隊を撃破して午前六時占領、十一時都城に達したが、退いて庄内に班した。
◎「河野主一郎」の記録(西南之役懲役人筆記)(鹿児島県史料「西南戦争第2巻」)
●同廿三日黎明独都城を発し、野尻より綾の地形及ひ兵備を検するに、綾は兵数三百余名にして且地利に拠れり、而して野尻は僅に兵二百余にして且地利を得す、因て兵員を増さん為め都城に赴かんと欲し、馬頭を回らし薄暮犀川の渡頭に至る、適我一兵に逢ふ、彼れが曰、「本日の戦ひ都城・庄内共に敗れて我軍山ノ口に退きたり」と、時に高城に在りし大隊長堀與八郎も都城の敗を聞き、兵を率ひ退き来るに会し、相議するに、我軍両所に敗るると雖とも未た遠く退く可からす、今犀川は要衝に当るを以て敵を此地に拒ん事を以てす、而して與八郎之れに当り
※犀川は「去川サルカワ」。旧高岡町に属し、大淀川沿いの国道10号のバス停もある。昔日の「去川関所跡」で知られている。ここから都城への旧路は難関の坂道で、確か年末には歩く行事があると聞いた。
▲今日の作業(1877年7月25日)で地名説明漏れがあった。「中村」という。旧松山町尾野見オノミの集落の名前だった。グーグルのペクマン人形で見つけた風景、「中村集会施設」とある。そして私の「●地名実数(提供用)180913」のファイルに記入した(赤で囲んだ部分)。別働第一旅団の一部隊がここから海岸線へ出て飫肥へ向かった。
ただ用心はしている、細目にドロップボックスに保存、時にはさらに携帯用ハードディスクにも保存している。これだけは緩めないで守るつもりだ。
今は、デスクトップ機(2010年購入)は使用していない。最新型の一つ前の機種の値下がり待ちである。昼間は暖かい広縁に付行き、デスクトップ機で使っていたディスプレイに携帯ノートを繋いで作業している。広縁の半分は冬場は家人の園芸物が占めており、共存共栄をしている。
▲1877年7月24日、アッケなく都城は陥落した。
◎鹿児島県史第3巻
●七月廿四日、官軍四箇旅団一梼に進撃し、別働第三旅団は財部の西郷軍を破り、午前十時先登都城に突入した。別働第一旅団は払暁岩川を発し、前夜岩川より退却した邊見・相良の部隊の不意を衝き、激戦の後之を破り、正午都城に入り、第四旅団は通山を攻撃、中島健彦の率いる振武隊を破って十一時都城に入つた。最左翼第三旅団は先づ平原の敵を破り、庄内に進み、防守の堀興八郎(河野主一郎とも)指揮の雷撃・干城・正義・協同等の混合部隊を撃破して午前六時占領、十一時都城に達したが、退いて庄内に班した。
◎「河野主一郎」の記録(西南之役懲役人筆記)(鹿児島県史料「西南戦争第2巻」)
●同廿三日黎明独都城を発し、野尻より綾の地形及ひ兵備を検するに、綾は兵数三百余名にして且地利に拠れり、而して野尻は僅に兵二百余にして且地利を得す、因て兵員を増さん為め都城に赴かんと欲し、馬頭を回らし薄暮犀川の渡頭に至る、適我一兵に逢ふ、彼れが曰、「本日の戦ひ都城・庄内共に敗れて我軍山ノ口に退きたり」と、時に高城に在りし大隊長堀與八郎も都城の敗を聞き、兵を率ひ退き来るに会し、相議するに、我軍両所に敗るると雖とも未た遠く退く可からす、今犀川は要衝に当るを以て敵を此地に拒ん事を以てす、而して與八郎之れに当り
※犀川は「去川サルカワ」。旧高岡町に属し、大淀川沿いの国道10号のバス停もある。昔日の「去川関所跡」で知られている。ここから都城への旧路は難関の坂道で、確か年末には歩く行事があると聞いた。
▲今日の作業(1877年7月25日)で地名説明漏れがあった。「中村」という。旧松山町尾野見オノミの集落の名前だった。グーグルのペクマン人形で見つけた風景、「中村集会施設」とある。そして私の「●地名実数(提供用)180913」のファイルに記入した(赤で囲んだ部分)。別働第一旅団の一部隊がここから海岸線へ出て飫肥へ向かった。
★薄いが確かに開聞岳が見えた&記録から ― 2018年12月31日 00:49:27
▲年末の様子を見ようと、好天につられて自転車で出た。風は強くはないが、空気が冷たい。空はほぼ快晴、遠くの霧島連峰も見える。ただ桜島は山肌がはっきりしない。しかしひょっとしたらと思い、自転車で別府川へ向かう。この前撮影の成功したポイントに着いた。残念なことにニコンを忘れてきた。手にあるのは家人が使わないので私が借りているキャノンのカメラ。画面に自分の顔ほか映り込むのでカメラの方向が正しいか、気になりながら最大限度の望遠にする。そして撮影した画像はその場では写っているか確認できなかった。川を渡って旧姶良町側堤防にに出て、ベストポイントで撮影した画像は失敗だった。
▲都城壊滅(24日)の次の日の1877年7月25日の記録から。記録者は旧飫肥藩家老を務めた人物である。
●25日一晴一雨○早朝都ノ城敗れたりとの風説あり○刀剣は先日已に本宅より運ひしかとも、槍四本・薙刀一本・陣笠三つ猶残り居たれは山荘に運ふ○午前9時外ノ浦に当りて大砲数発相聞えけれは、復官軍の寄たるよと取急き本宅に帰る○都ノ城の敗にて西川内より通り来る残兵数百人多く佐土原兵なり、酒谷口・板谷口危しとて、外ノ浦出張の兵櫛間出張の一小隊追追引上け来り、残り一小隊は明日引上の筈なりと云○晩景抱膝庵に帰る
※外ノ浦(外浦トノウラ、日南市南郷町潟上、国道448・外浦港)
※西川内(ニシガワチ、旧藩期の上酒谷村をいう、日南市酒谷甲、国道222・酒谷川)
※佐土原(旧佐土原町上田島、国道219・県道44・三財川)
※酒谷(日南市酒谷甲・乙、国道222・酒谷川)
※板谷(イタヤ、旧北郷町北河内キタガワチ、県道33・広渡ヒロト川・鰐塚ワニツカ川)
※櫛間(串間、串間市西方、国道220・448・県道112・福島川)
◎今日は7月26日の資料を扱った。わずか1日の間に終った。理由は記録者の数が減ったからである。
▲都城壊滅(24日)の次の日の1877年7月25日の記録から。記録者は旧飫肥藩家老を務めた人物である。
●25日一晴一雨○早朝都ノ城敗れたりとの風説あり○刀剣は先日已に本宅より運ひしかとも、槍四本・薙刀一本・陣笠三つ猶残り居たれは山荘に運ふ○午前9時外ノ浦に当りて大砲数発相聞えけれは、復官軍の寄たるよと取急き本宅に帰る○都ノ城の敗にて西川内より通り来る残兵数百人多く佐土原兵なり、酒谷口・板谷口危しとて、外ノ浦出張の兵櫛間出張の一小隊追追引上け来り、残り一小隊は明日引上の筈なりと云○晩景抱膝庵に帰る
※外ノ浦(外浦トノウラ、日南市南郷町潟上、国道448・外浦港)
※西川内(ニシガワチ、旧藩期の上酒谷村をいう、日南市酒谷甲、国道222・酒谷川)
※佐土原(旧佐土原町上田島、国道219・県道44・三財川)
※酒谷(日南市酒谷甲・乙、国道222・酒谷川)
※板谷(イタヤ、旧北郷町北河内キタガワチ、県道33・広渡ヒロト川・鰐塚ワニツカ川)
※櫛間(串間、串間市西方、国道220・448・県道112・福島川)
◎今日は7月26日の資料を扱った。わずか1日の間に終った。理由は記録者の数が減ったからである。