★デスクトップ画面が消えていた2018年11月04日 02:02:08

▲初めて見た。いつもの起動時の多く出ている起動画面が消えていた。
画像にある赤丸部分3つと四角でしるしたタスクバーの部分だけがあった。
画面に見えるその他は全て直ぐに作成したショートカットである。ショックなのは「PC-ショートカット」まで作らされたことだ。ここでおかしいと思い、再起動することにした。今の画面が出て来た。
思い当たるのは今日昼間もう一つのデスクトップパソコンでの作業中にOneDriveを整理したことだワード・エクセル等のファイルは残したが、フォルダーもごっそり処分した。理由は起動時に要求される「課金画面」が気になったから。確かデスクトップの全てが自動的に保存となっていたような気がする。それも気に入らなかった。どうしてそうなったか、操作したのであろうが定かではない。
▲新デスクトップ画面での最初の研究作業は無事済んだ。今は1877年6月22・23日を打ち直し作業中である。
◎22日、官軍は姶良市重富に上陸、寡少の西郷軍などすぐ潰れ、白銀坂(しろがねさか)から吉野台地へ上り、たちまち台地全体を制圧した。西郷軍行進一番中隊の筆記人の記録の一部。彼は傷つき、木陰で休んでいた。
●(前略)背後に近く「斬るな々々」と連呼する人声を聞く、頭擡けて一瞥すれは先なるは抜刀を振翳して馳せ、後なるもの叫んて馳す、予に馳せ附くや、予の刀を奪い携帯品を執る、曰、「汝降る乎」、敵兵益多く馳せ集りしと覚しく、只口々に何事か相語り甚喧囂たり、又曰、「汝降る乎」と、予始めて面を上けて曰、唯々助け得可くんば希くは助けられよと、其人曰、甚善し、而して徐かに語を続いて曰、汝は何許の人、氏名は、年齢はと、皆之に答ふ、其人予の甚た昏憊せるを見て、即ち其懐中を捜りて宝丹を取り之を与へらる、且曰、痛甚しきか、傷は大腿なり、蓋し又軽傷か、気を強持せよと、乃ち予の腰部を索くると覚へしが、目開けば予の帯を解き半は之を切り取りて以て傷所を包裹せらるゝなり、且曰、傷や実に浅し、其れ気を強くせよ、直に軍艦に収容し長崎本病院に送りて厚く治療を加へしめんと、慰諭せらる(後略)
◎彼を慰諭した官軍士官はどうやら前後の記事から推して、警視隊と考える。ひょっとして鹿児島県出身者かもと。幸い彼は、翌日23日、官軍を逆襲して台地を取り返した西郷軍行進隊に出会い、無事病院に収容された。この2日間の彼の記録は見事である。

★悪―ドにやられた2018年11月09日 20:56:08

蝶か蛾か
▲10分毎に保存する方法を止めてから、いつでも保存ができるので安心していた。夕方5時からの入力作業が2時間過ぎた。ワードの2ファイルを「保存」を仕掛けてトイレに立った。帰って来てビックリというより唖然。1ファイルが消えている。あわててフォルダーを見たら、今回の保存だけでなく、何回か保存したはずの形跡がない。あの作業量を入れたファイルはどこへ消えたのか。そういえば消えたファイルに代って何もないファイルが起動されていた。
結局、泣く泣く作業をやり直す羽目になった。腹の煮え返る思いをこらえながらである。結局馬鹿ソフトと割り切る以外はあるまい。
▲1877年6月25日、官軍は完全に鹿児島の主導権を握った。それに関する西郷軍関係資料から、前ブログで登場した人物の①25日と②26日の記録。
①鹿兒島の全軍守を失ひ、惣軍引揚けとなりて担夫来る、即ち轎に入り揺々吉田に至る、敵已に蒲生に迫る、早く帖佐に行けと、帖佐に至れば又曰、加治木に行けと云ふ、然も輿夫なし、國分に行くもの帰来らば之を送らせんと待てとも々々一人も来らす、次々に運び来れる患者は轎にのりたる儘庭前に据へ並へられ、各声を限りに支配人に迫まれとも更に其甲斐なく、足歩することを得るものは自ら門前に待ち、今帰来る処の人夫を取りて己を担はしむ、残れるは重傷者四五人となる、予は漸く五時頃に至りて人夫を得て加治木に至る、此処も同しく大混雑にて其儘町家の軒下に据えられしのみ、最上鹿之助氏肩に負傷し亦担はれて来れるに会す、共に人夫を得す、日既に暮れんとする頃に及んて細雨霏々として降り来る、依て遂に此に宿することとして最上氏と共に送られて旅舎に入る、此夜より痛み大に減し気相快なり
②未明二人相前後担はれて街頭に出つれば敵の軍艦早や前湾に来り町家を目掛けて発砲す、街衢騒然たり、此日大雨、濱ノ市(旧隼人町)に至る、雨益甚し、乃ち轎上に藁筵を被ふて行く、國分を経清水(旧国分市)に至り、第三十三号の病院に入る、途中最上氏と相失す、夕方鹿兒島の人岩切某・中村某外一人入院同宿す
▲ワードにも恵まれないが、蝶にも相手してもらえなかった今年の最後の写真はどうやら蛾ではあるまいか。蝶はヒラヒラと軽やかに飛ぶが、彼等は羽をバタつかせて、まるで回転させているような飛び方をする。

★ついに開聞岳を撮影した&ワードほか2018年11月14日 21:28:47

姶良橋(別府川、国道10)から見た開聞岳
▲2018年11月14日やっと撮影できた。朝家人と今日は空が青いなと話していた。いつもテレビでは素晴らしい青空だが、我が鹿児島の空はどこか色が薄い。これなら開聞が見えるかもと期待した。一応の研究作業が終って出かけた。気になるのはレベル30まで落ちた電動アシスト車のことだ。別府川右岸のいつもの定位置に着く。見えた。画像としてはいつもこのレベルで最高の状態である。いつも必ずある雲が今日の開聞にはなかった。調子に乗って旧姶良町側の左岸へ向かう。境目の姶良橋上でも1枚撮影した。気になる自転車の電池は20に落ちている。堤防の撮影ポイントに着いた時はレベルは17だった。
▲ワードには相変わらず泣かされる。過日は3回連続ワードが消えた。復元されないので、その度にやり直しである。ただ作業1件か2件ほどでの消滅だからそれほどのショックはない。1回目は「カナ書き」を「かな書き」にする時に、2回目・3回目は「保存」をクリックした時である。一つ疑問があるのは、フォルダーに一度保存されていた別ファイルまで消えていたことだ。
取った対策は、保存はゆっくり、状況を見て、確実に実行する。そして必ず、ドロップボックスにもコピーして置く。これなら消えても安全である。同系統のOneDriveは信用できない。
▲1877年6月30日の戦。
梅雨の大雨で増水した川内川は官軍の前進を拒んでいた。そこで2日前から大口から川内川右岸を大きく迂回する策が実行され、この日渡河したのは旧鶴田町である。まったく西郷軍側は予想していなかった。
●官軍(「征西戦記稿」)
こうして電馳雷撃、変化出没、賊をしてその寡単を知らしめず、午前6時開戦す、賊兵よく拒ぐといえども我が攻撃は全く彼の不意に出たるにより一塁の設も無く、唯交互挺出力闘するのみ、我軍奮進し、所略(計画通り)の哨舎に火し、勝を川北の本軍に報ず、川村少佐は自ら左翼の2中隊(下村大尉・瀧本大尉)を督し、2隊衆に抜んでて劇闘す、11時賊軍遂に敗れ山を越えて走る※川北(カワキタ、旧菱刈町川北、国道268・川内川)
●西郷軍(「西南之役懲役人筆記」)
或日曽木郷我常山二番隊の守りを失せし報を得、よってここを引揚べしと、「この大河を敵如何して襲来せしや」を聞くに、「裸体にして銃を頭にし渡り来りし」と云う、「鳴呼、これを狙撃せざる何事ぞや」、総軍切歯すといえども及ばず、止むを得ず守りを去て退くこと里許にして湯之尾の内小田を守る※小田(幸田コウダ、旧栗野町、県道53・443・幸田川)

★作業遅れ&ワードの試練に耐えつつ2018年11月17日 20:27:58

▲研究作業は遅れる見込みである。私のミスでいくつもの地名説明が抜けていた。確かめながらの作業なので時間が掛かる。
例:1877年7月1日。官軍第二旅団の記録(「征西戦記稿」)。
●急に撃て亦之を走らし、近衛兵1中隊・鎮台兵1中隊北るを逐ふて山を踰え共に本庄街道賊塁の背後より瞰射す、賊不意に出られ亦支へずして走る、両隊下を幸田村を取り、其銃器・弾薬・糧米を略し、1隊を分て先ず村左丘上の賊塁を攻め、之を抜き更に進て敗賊を追躡し、遂に栗野街道の斧山を占領し、以て栗野よりするの賊路を塞ぎ而して直ちに横川麓を突かんとす、賊返拒、路傍の山上(中野村の内字山之口)に拠り我軍を掩射す、時に援隊近衛兵2中隊馳せ至り共に撃て之を走らす
①幸田村(旧栗野町幸田、県道53・443・幸田川)
②栗野街道(県道55、旧栗野町~旧加治木町)
③斧山(王ノ山、旧栗野町米永、県道55)
④栗野(旧栗野町木場、国道268・県道55・102・103・川内川・湯谷川)
⑤横川麓(旧横川町中ノ、県道50・55・天降アモリ川)
⑥中野村(中ノ、旧横川町中ノ、県道50・55・449・天降アモリ川)
⑦山之口(山ノ口、旧横川町中ノ、県道53・55・清水川)
◎このうち①③⑤⑦は当初からあった地名説明で、②④⑥は今回入れ込んだ地名説明。数年前なら自転車で出かけた地域の地名で、我が町の近隣の地名なので手を抜いた(?)。
▲何とかワードからのイジメ(いきなり画面から消す)はここ1日は無事に済んだ。今はちょっと長い一文の訂正などの時はその度に「保存」クリック。ネットでマイクロソフトに文句入れたが効果なし。と言うより届いたのか疑問。今のこの対症療法で行く。ただ「保存」クリックの度に息を呑む自分がいる。
▲悩みの一つであった、シャットダウンの時に「アプリが……」と出て、強制終了せざるを得なかった問題はクリアできた。原因はプリンターの常駐アプリにあった。「アプリ(アイコン)を消す」とのネット情報で全てを一つ一つデスクトップから消して行った。最後に残った一つがそれだった。不便なので今必要なアプリ(アイコン)を少しづつ入れ始めている。
▲画像は蝶なのか。この日は菊に一時4匹同時に止まっていた。

★バス停で地名を確認する2018年11月23日 01:59:53

▲元の記録は以下の通り(日記)。1877年7月3日。
●同3日旧廿三日●朝6時比右4小隊志布志街道筋に斥候として操出相成候処、志布志の柳とか云う所に敵相見得候に付、左小隊にも操出し候様との事にて昼飯仕廻次第同道筋へ操出候処、敵は末だ當所より5里計り先志布志の内に屯集致し居る由に付、午後3時比各宿に引上げ、右小隊にも同断引上相成候※志布志街道(県道499)※柳(旧志布志町安楽、県道499・安楽川)
◎地名説明では「志布志街道」を追加した。実は自分が作成したはずの「柳」の地図上の位置が分らない。平凡社辞典から作成したのではない。そこでグーグルマップと地理院地図2つを目をこらして見続けた。そしてようやく地理院地図に見つけた。画像左(地理院地図)の赤〇の所。そしてグーグルマップのペクマン人形を使って見つけたのが画像右の赤〇部分。「下柳バス停」である。その位置は画像青■。なお「+」マーク位置は右画像の撮影地点辺りと想定したもの。「下柳」地区は画像の右の道へ入る。肝心の「柳」バス停は見つからなかった。
記録者は出発地末吉の麓士族有馬氏宅へこの日は引き返した。再び動くのは5日である。
●同5日旧廿五日晴●今日も休兵、志布志町へ敵相見得候に付打散らし方として昼午後3時比俄に達有之、夕飯仕廻次第より操出したる処、中途暗夜にて中々難儀致し、松山町へ小休いたし、志布志内伊作田村へ夜12時過着、銘々宿泊※松山(旧松山町新橋、県道109・110・菱田川・松尾川)※伊作田村(伊崎田イサキダ、旧有明町伊崎田、県道63)
◎グーグルマップでは末吉より松山そして伊崎田まで16.9km。車で23分。歩いて3時間27分。