★羸か贏か嬴か蠃か、難字に泣かされた2021年03月10日 23:34:17

▲画像にこの4字がある。これが私の資料に入り混じっていた。印字が小さいし、不鮮明もあり読み取る力がなかったということだ。前後から意味を掴むことができなかったことも一因であろう。画像の左側は私の「全地名」エクセルファイルで検索し、訂正済みのものである。拡大した画像右側の文字のうちの3文字が必要な文字であった。
▲発覚のきっかけは、「西南記傳」に「輸贏(ゆえい)」とあったことだった。これは「輸」は負け、「贏」は勝ち、つまり勝ち負けを意味するのだとある。そこで検索したのは表題の「4文字」だった。その修正は5箇所で済んだ。1つだけある「蠃」は全く不適切な文字であった。似た文字が他にもあるが、今のところ検索する予定はない。
全資料にからむ修正作業なので、本当に疲れ切った。「羸憊」だった。
▲以下は、「西南記傳」にある1877年6月26日の記事。6月24日に始まった薩軍の敗北は。この日は終に鹿児島の北部から吉田へ、そして現姶良市方面に追われ行く。
③時に、振武大隊長中島健彦敗報に接し、相良・神宮司等の諸将に謂て曰く、「事急なり。今日は寧ろ進みて輸贏を一挙の間に決するを可とせん」、神宮司曰く、「一旦吉田に退却し、然して進退を議するも未だ晩しとせざるべし」と。中島之を然りとし、奇兵・行進両隊をして、吉田街道を拒ぎ、各隊の輜重を重富・帖佐の間に送らしめ、黄昏、奇兵・行進両隊は吉田に、振武隊は重富に退却せしが、未だ幾ならず、振武は蒲生に、奇兵・行進両隊は加治木に退却せり。
◎我が姶良市全域が戦場となる。官軍側は思川(オモイ)・別府川(ベップ)と大河があるが、その進撃は止まらず、さらに北の溝辺からは別軍が近づいていた。数日で戦場はもう一つの大河の網掛川(アミカケ)を越えて、旧隼人町へと移り行く。以下は「征西戦記稿」より作成した資料。
①3日午前零時、火、加治木方面に起る、第二旅団急に兵を進め龍門司坂を下り直ちに之に赴くに賊既に踪跡なし、僅に其1隊を駐め小田越の険を扼するを聞く、蓋し賊昨夜我兵の龍門司坂に出るを聞き、其背後を衝かるるを恐れ俄に茲を棄て潰走せし者なり※龍門司坂(タツモンジサカ、旧加治木町木田高井田)※小田越(旧隼人町小浜オバマ~同小田オダ、県道471)
②時に第四旅団兵の来るに会ふ曰く「6月30日より昨日に至るまで連戦決せず、今朝を以て別働第三旅団(是時川路少将既に去り大山少将代て之を統ぶと)と蒲生口より山田を経て共に加治木を勦すべきを約す、会々賊の行進隊第十中隊240名来り降る、余賊亦自ら其守寨を焼て潰ゆ、因て一弾を費さずして直ちに此に来る」と※蒲生口(蒲生、旧蒲生町上久徳カミギュウトク、県道42・25・蒲生川)※山田(旧姶良町下名シモミョウ、県道40・391・山田川)