★大著「西南記伝」を読み込んでいる2020年11月30日 20:02:27

▲もう全部を打ち込む力はないので、要約をと思いながらもついつい長く文章を打ち込むので連続打ち込みは続かない。休憩時間が多い。今は西南の役始まりの「高瀬の戦」の1877年2月27日の記事の途中だ。ここで私の地名記述のミスが偶然発覚した。ことは高瀬の戦いより、北の「稲荷山」をめぐる戦いである。
●「西南記伝」
①既にして薩軍右翼隊(桐野)は上流浅瀬徒渉し、官軍左翼に突出し、玉名の森林を過ぎて南関退路断たんとせり
②たまたま野津大佐南関より船隈牙営に抵り、状を聞きて驚き、岡本中佐と相議して第十四連隊で邀撃せしむ
③(野津大佐は)1中隊(村田少尉)、大迫大尉と共に疾駆して稲荷山を占めんとせり
④大迫・村田山巓きに至る時、薩軍山腹に及べり、官軍瞰射、山内次郎(堀小隊半隊長)・有馬宗右衛門(重久小隊半隊長)及び吉田清・毛利治三太(別府小隊斥候長)等相次ぎ斃れ、稲荷山は官軍占むる所と為れり
◎本書では「稲荷山」は「天王山」で、官軍に取られたことは「薩軍の失敗」とする。若し薩軍が取っていたら官軍は「南関」への道が断たれたとする。なおこの方面薩軍は四番大隊長桐野利秋が指揮官であった。
◎そこで私の地名調べから「稲荷山」を探すと、玉名市繁根木(はねぎ)付近になっていた。しかし「西南記伝」は官軍の船隈本営の北方の山としている。よりによって特に重要な地名を誤ったのだ。訂正しようとネット情報を見る(平凡社地名辞典にないので)が、どれもいかにも親しげに「稲荷山」と堂々挙げてはいるが、何一つ地名説明はない。とかく多くはこのレベルである。
◎結局訂正は、「※稲荷山(イナリヤマ、玉名市玉名、県道4・繁根木川、船隈本営の北方の山)」となった。私もそれ以上の説明は加えることができなかった。多分、玉名郡医師会病院のある高台を含むと思うのだが。
▲画像は船隈本営跡地からその北方の高台を望む合成画像。グーグルストリートビューで作成したもの。