★不明地名解明作業は県単位で進めている2020年11月05日 05:35:24

花と蝶2匹
▲現在、1400余あった不明地名総数は1395件、何とか解決できたもの288件、残り1107件が未解決のため依然作業中である。
①作業は県単位で行なうようになって作業スピードは上がった。これは解決スピードではないのだが。先ずいつも開いている地理院地図は同県であるので動かし易い。今はさらに市町村単位での作業をしている。より細かな範囲で見れる。
②その結果として多分同地名を示すであろうが、異なる字句の地名をいっしょに見て比較することができる。
例1:鳳満峠・宝満越・ホフマン越・方万越‥‥正確な名称と位置は不明。
例2:蜜柑ガ関・密柑ノ関・蜜柑ノ関・三カンノ関・蜜柑ヶ関‥‥正確な名称と位置は不明。
例3:雀ガ原・雀ヶ原・雀原と滑岡・滑ノ岡・滑ヶ岡‥‥共に正確な名称と位置は不明。
 残念ながら解決できていない。このように表現の違う重複事例は結構ある。
▲現在は熊本県を解明する作業中である。ここには不明地名のほぼ半数が含まれている。頼りとするのは、平凡社歴史地名大系、地理院地図、グーグルマップ、マピオン地図など。以下は最近の解明(?)具体例。
①サナキ(不明、球磨村)→サナキ(和奈木ワナキ、芦北町白石、県道272・球磨川・和奈木川)※正確な地図上の位置は分からない。
◎なぜ「サナキ」を「ワナキ」としたか。「サ」は「ワ」の間違いと解釈したからだ。
②坊城(不明、旧阿蘇町)→坊城(坊中ボウチュウ、旧阿蘇町黒川、国道57・県道111、坊中郵便局)
◎「坊城」は存在しない。「坊中」は実在する。
③大正解は人吉市の「紅取山」。今までどうしても解決できなかった。唯一は球磨川に架かる「紅取橋」だけだった。解決のきっかけはネット情報探索中に「紅取丘公園」と出てきたことであった。かくして、以下のようになった。
紅取山(不明、人吉市中神町、球磨川・紅取橋)→紅取山(356.2m、人吉市中神町、紅取丘公園・球磨川紅取橋)
◎ここは西郷軍が根拠として人吉防衛の一拠点としていて、この地名は11回登場する。その最初の一文(「征西戦記稿」5月31日)(未訂正)。
●先鋒(斥候を置く)進んで栗林村に至れば小流あり、賊其橋板を撤して僅に半に及ぶ、因て必ず近傍に潜むを知り、兵を縦て捜索するに果して前面中神村に在り、胸壁を村後の田畝に列築せり、又球摩川を隔て賊の紅取山上に伍を成し徃来するを見る、先鋒先ず橋を修む※栗林村(栗林クリバヤシ、球磨村渡ワタリ、国道219・球磨川・小川)※中神村(人吉市中神町、県道15・球磨川・紅取橋・天狗橋)※紅取山(不明、人吉市中神町、球磨川・紅取橋)
▲画像は花と蝶2匹

★2回目の不明地名解明作業終わる2020年11月09日 23:57:25

▲6月15日段階で1402件あった不明地名は最終的に1391件になった。最後2件を重複していたので削除しての結果である。
①1391件の内訳は、
大分県91件、宮崎県438件、この両県に重複するもの6件、熊本県609件、鹿児島県243件、福岡県4件。
地名総数は11501件であり不明地名は12.1%に相当する。これでは私の負けである。まだまだ解明作業は続けて行くつもりである。
②今回の作業の中で、特に鹿児島県は所有する角川の「角川日本地名辞典」も用いることもあったが、頼りにはならなかった。私をイラつかせたのは「資料編」の「小字一覧」である。先ず目次がない。そして「市」はちゃんと並べてあるが、「町」・「村」は並べかたに一貫性がなく、メチャクチャな配列である。それでも苦労して探し付けて「小字」の一覧を見て、そこにあればいいのだが、何故かない。もっともあった場合でも「絵地図」ではないので、位置推定もできない。ほかの県は図書館に行けば閲覧可能だが、コロナ騒ぎの今は動きが取れない。
③意外に役だったのは今やどの市町村も作成している防災・避難地図などだった。小字が並んでいる時は「当たり」となる。また川名・橋名は橋の橋梁工事一覧で見れるので大いに助かった。
④悩みは「読み」である。漢字の情報までは行き着いたが、さあ何と読むのだろうかと。役に立つのはヤフー地図の古いタイプだが今はない。
⑤バス停はその付近の小字を名称としているものが多い。地図ソフトでは「マピオン」が役立つ。グーグルマップが次位となる。バス停ソフトでは読みが付いているものがある。
⑦今回の作業で後半特に多用したのが、「地理院地図」である。地図に小字もそれなりに書かれている、探す小字名を記入して検索すれば全国のその地名が出る。以前はそれを最初から全部見て選んでいたが、ある時県単位(市町村も可)に絞って検索できることに気づいてから大いに利用させてもらった。
⑧最後の手段はひとつである。私の全資料のCDを無料配布して、かわりに不明地名の情報をいただくことだ。
※必ず使う平凡社の歴史地名大系での検索結果。「西南戦争」と入力して「本文」検索した場合、大分16件、宮崎34件、熊本121件、鹿児島64件、福岡3件。
▲画像はJR九州の新しい列車「36+3」。写真画像をプリントスクリーンして一部切り取ったもの。

★いつものことながらハガキ印刷ソフトは2020年11月15日 09:58:39

▲時期である。付き合いも減っており、相応するように年々賀状の数も減っている。かって150枚ぐらいを出していた頃とは違う。しかし、相変わらず印刷ソフトに頼っている。私にはその質が悪い、適さない。
①昔の年賀状には十二支揃えていたゴム印を押したものだ。今は選ぶに迷うぐらい十二支のゴム印(電子絵)が多種多様。
◎こんなものが何になる12個で十分。余計なことはするな。
②宛名に両名併記する。多くは亭主殿を立てて1行。その左脇に細君殿の名を記す。ところが私のソフトでは共に漢字2字なら、まあまあだが、漢字3文字だと、姓の横にまで出張って並ぶ。
◎腹が立つので、ついにはエクセルで作成してあったので、使おうとしたら、何故か郵便番号の設定がうまくできず、あきらめて印刷ソフトに従った。
③プリンターがキャノンとエプソンの各1台があるが、本年はエプソンを使っている。
◎何度使っても、先ずキャノンが優先され、即エプソンとはならない。オマケに「接続診断を」との注意まで出てくる。
④「印刷」と表示が3カ所ありどれからでもできるのであろう。
◎何故3ヶ所あるのか、ほかもいろいろ絶対使わない機能が多すぎる。
◎今時は、多くの人はこの時期にだけ使うのだから、もっと簡素化したソフトでいい。そういうソフトも使った経験があるから。
◎何で毎年バージョンアップする必要があるのか不思議である。
▲西南の役当時の日記資料を収集した。しかし私のその関係資料には追加しない。理由は西南の役の西郷軍側の資料ではないからだ。資料は西郷軍壊滅の日、1877年9月24日の記録である。
「●同廿四日曇後雨月暁四時相図砲声ス、夫ヨリ砲声盛ナリ、出張人数皆見物ニ出、早朝永安橋辺へ行候処、賊敗滅ノ報知アリ、故ニ皈ル、県令来ル、十二時後令同行、元浄光明寺へ行、死骸埋方、雨甚シ、夜入本皈ル、」
◎「出張人数皆見物ニ出、早朝永安橋辺へ行候」とある。皆今日が最後と知って見物に出てきた。記録の当人も橋まで行った。
▲どうやらいつもの蝶も見納めかと庭を眺めたら、いた。すぐニコンを掴んで、ガラス戸を開けた。途端に飛び立った。今日の画像は現在の最新画像である。

★ハガキ印刷をエクセルで試みる2020年11月26日 11:57:56

▲以前作っていたハガキ印刷用のエクセルファイルを見つけ出し、改良することにした。
①左上に住所一覧表の番号を入れる。宛先用の郵便番号・住所・姓名・名前が自動的に入る。
ここで問題は「郵便番号」だ。ハガキの枠内に入れるようになっていた筈だが、エプソンで古ハガキに印刷するとズレている。これをエクセルの縦列・横行を調整して、テスト印刷するには相当のハガキが必要なので、もったいないのでハガキのコピーを作成した。そしてテスト印刷数回で何とか枠内に数字が並ぶようになった。
②ハガキには左下に自分の郵便番号を書き込むところがある。これは枠が小さい。そこで数字7つを入れるために、①で作成した列幅のほぼ左半分を狭い列と交換しなければならない。すると当然宛名の郵便番号もズレる。
 結局、横行を1つ加えて幅を調整し、さらに縦列を増やしその幅を調整して、やっと何とか様になった。
※印刷すれば確かに枠内に数字がキッチリあるが、なお少し調整するほうがいいようだ。多分キャノンで印刷する時はまた再調整しなければならないのだろうか。
▲国会図書館の資料「西南記伝」という名著の中巻の一と二が私には必要と考えてアクセスした。そして西郷軍の熊本城攻撃の関係部分を読んでいた。そこに「射的場は本城の空濠(堀)に」という一文があった。ピンときた。私の「不明地名調査」のファイルを開く。
以下は1877年3月3日の資料(「征西戦記稿」)
●工兵隊は鑿壕・築壁等の外又2個の坑倉を歩兵営前なる射的場の壕内に鑿ち、13日を経て功を竣る、乃ち弾薬を其中に藏す、又更に坑倉を宇土櫓の北濠即ち櫨方より空壕に下らんとするの地に開鑿し、火薬及び弾薬等を区画して之を格納せり、該坑倉の広濶にして土壌及び位置の適切なるは他坑の能く及ぶ所に非ず、且つ最も敵弾を避くるに宜し、但し新墾の路険なるを以て其出入運搬等の艱難は又免れざる所なり※歩兵営(不明、熊本城)※射的場(不明、熊本城)※宇土櫓(ウトヤグラ、熊本市中央区本丸、堀平左衛門預櫓・平左衛門丸)※枦方(不明、熊本城)【30021054●巻21熊本城戦記】
◎お蔭で「※射的場(不明、熊本城)」は「※射的場(熊本城の本城の空堀)」と替えることが可能になった。別に「射的所」もあるでこれも可能になった。正確には「1075件」だった不明地名等は「1073件」になった。「西南記伝」には「枦方」の文字も見えたが、その説明の字句はなかった。
▲そして今、「西南記伝」中巻一を文の要点を少しづつ手打ちで作成中である。古いのでスキャナーでは不可能であるのは「征西戦記稿」と同じ。しかしもう朝から晩まで打ち込み始めた当時の気力・体力はなく、「要点」のみ簡略化して取り組むのみ。いつまで気持ちが続くかな。不明地名が1つでも解消できれば気持ちは続くかも。
▲画像は我が家の花(花名は聞いたが、ネット情報と違うようなので記さず)。蝶は全く見かけなくなった。

★大著「西南記伝」を読み込んでいる2020年11月30日 20:02:27

▲もう全部を打ち込む力はないので、要約をと思いながらもついつい長く文章を打ち込むので連続打ち込みは続かない。休憩時間が多い。今は西南の役始まりの「高瀬の戦」の1877年2月27日の記事の途中だ。ここで私の地名記述のミスが偶然発覚した。ことは高瀬の戦いより、北の「稲荷山」をめぐる戦いである。
●「西南記伝」
①既にして薩軍右翼隊(桐野)は上流浅瀬徒渉し、官軍左翼に突出し、玉名の森林を過ぎて南関退路断たんとせり
②たまたま野津大佐南関より船隈牙営に抵り、状を聞きて驚き、岡本中佐と相議して第十四連隊で邀撃せしむ
③(野津大佐は)1中隊(村田少尉)、大迫大尉と共に疾駆して稲荷山を占めんとせり
④大迫・村田山巓きに至る時、薩軍山腹に及べり、官軍瞰射、山内次郎(堀小隊半隊長)・有馬宗右衛門(重久小隊半隊長)及び吉田清・毛利治三太(別府小隊斥候長)等相次ぎ斃れ、稲荷山は官軍占むる所と為れり
◎本書では「稲荷山」は「天王山」で、官軍に取られたことは「薩軍の失敗」とする。若し薩軍が取っていたら官軍は「南関」への道が断たれたとする。なおこの方面薩軍は四番大隊長桐野利秋が指揮官であった。
◎そこで私の地名調べから「稲荷山」を探すと、玉名市繁根木(はねぎ)付近になっていた。しかし「西南記伝」は官軍の船隈本営の北方の山としている。よりによって特に重要な地名を誤ったのだ。訂正しようとネット情報を見る(平凡社地名辞典にないので)が、どれもいかにも親しげに「稲荷山」と堂々挙げてはいるが、何一つ地名説明はない。とかく多くはこのレベルである。
◎結局訂正は、「※稲荷山(イナリヤマ、玉名市玉名、県道4・繁根木川、船隈本営の北方の山)」となった。私もそれ以上の説明は加えることができなかった。多分、玉名郡医師会病院のある高台を含むと思うのだが。
▲画像は船隈本営跡地からその北方の高台を望む合成画像。グーグルストリートビューで作成したもの。