★姶良市から見えた開聞岳2015年12月01日 00:24:58

▲ここ数日曇天が多く、寒さも風もあり、私の自転車行は長く出来ない。30分も漕ぎ廻ると、背中の汗は冷たくなる。ところが今日は一転好天気。雲一つないとは言えないが、冬の澄んだ空気と少しの温かさが小春日和風。
▲少し遠出もいいかと高速道路に沿って西へ向かった。しかし、少し坂になったところで苦痛を感じて引き返し、道を木田の山裾沿いに南下した。別府川で桜島を写す。今度は南九州病院を抜けて、加治木養護正門から別府川左岸堤防道へ。ジャングルみたいな薮の中の砂利道を抜けると、須崎の海岸を取り巻く大堤防となる。そこで桜島を撮ろうとしていて気付いた。かすかに高い山が見える。直ぐにカメラの望遠を最大にして眺める。開聞岳だと確信した。
※画像は、写真数葉のうち、船が写り込んだお気に入りの1枚。

★Windows 10生活の最近は2015年12月07日 22:16:48

▲バックアップする時は、
①Windows 7ではファイルまとめてを「コピー」、コピー先のHDD・USB・Dropboxの該当「フォルダー」を開いえ、「貼り付け」の手順で行っていた。
②Windows 10の今は、コピー前の選択した段階で色が変わる、それを直接コピー先のHDD・USB・Dropboxの該当「フォルダー」に「ドラッグ」する。この方が楽である。
▲Windows 10:コピーしたら書式が乱れた。
①日付単位でのワードの作業が終わると、全てをコピーして、次にやる日付の下にコピーする。そしてその上に新しい日付の資料を書き加えて行く。それは前日分のミスを発見できるメリットもあるが、一番は一定の書式を保つ方法だからだ。
ところが、最近その書式が崩れる。ただ、たとえば「(2)鹿児島大隅戦」相当部分のみコピーすると書式は保持される。次の「(3)霧島南麓戦」までまとめてコピーすると両方共に書式が崩れる。
しかし、この日はデスクトップでは崩れたが、ノートパソコンではまとめてコピーしても崩れなかった。何故なのか。
▲Windows 10:文字をマウスで選んで右へと動かして選択する。ところが右へ動かして行くと突然逆に左へと選択した部分が移動。そうならない時もあるが。
▲Windows 10:各種反応が早過ぎる。過日は一瞬文字一行半が勝手に選択され、太文字になった。
▲Windows 10:起動の後、パスワードを入れるため、画面を適当な位置でクリック、そして入力していたが、ある時手が下矢印キーに触れたら、入力画面が浮かび出て来た。
▲Windows 10:何と保存せずままに終ったファイルがある。ファイルの右上の「×」をクリックすると、「保存しますか」の字句が現れるから、うっかりミスはない筈。しかし、念のため「保存」→「×」クリックを私はする。この日は最初エクセル2ファイルまでは順調。ところが残りの2ファイルは保存する前に消えた。
保存されたエクセル2ファイルと粗々の作成メモを見て再生作業をせざるを得なかった。
 ここ数日は保存作業が済み、USB1個に念のためそれをコピー、そして終了作業に入ることにしている。
▲Windows 10:Windows 7時代同様、突然ワードが終了、再起動する。安心して下さい。ちゃんとコマめに保存してますから。

★パールハーバーの思い出2015年12月09日 00:51:40

姶良市加治木町網掛川
▲今日は12月8日、日本が第二次世界大戦に参加した日だ。ところで数年前ハワイに行った時、かの真珠湾に単身見学に行った。無謀にも満員のバスでパールハーバーへ向かった。バスの中で小銭を投入出来ない私を見て黒人女性が親切に手渡ししてくれた。「サンキュー」と言えた。
着いたら観光客は特別な日でもないのに多かった。なかでもかっての米海軍兵士だったそうな方が夫婦で、あるいは家族で来ている感じで、「敵国」の人間は私一人のようだった。むしろ歴史に疎い日本人が来ていないようでホッとした。結局売店で開戦翌日のアメリカの新聞(ほぼそのまま再刊)を買っただけだった。気おくれしてアリゾナを見には行けなかった。新聞は帰国後地域の施設に寄贈した。
 当時の政治家はドイツのヒットラーと組む選択をして国民を破滅に導いた。二度と彼等が同じような過ちを繰り返さないようにと願う。
▲この日は快晴だった。今日はまたあの開聞岳を見れるかと自転車を飛ばして行った。無理だった。冬場はまだ見るチャンスがあるだろう。途中の川に形のよい渡り鳥がいたので、カメラを準備して撮影しようとしたら消えていた。トリ逃がした。代って踏切の音で振り返って撮った「隼人の風」。本当は2両とも黒の筈だが。

★都城の戦(1877年7月24日)2015年12月18日 01:20:51

2010年3月撮影
▲私の9月以来の研究作業も、つい先日終った。最後は1877年7月24日の項で、中心は「都城の戦」であった。しかし厳密さを加えるなら、都城の戦ではなく、都城陥落を目指す官軍側の三面合撃で周辺部で敗退した西郷軍が大慌てで退いたというのが真実であろう。
▲資料紹介(幾分か読み易く変えてある)※エクセルで261行分の1行分。
六月十四日(7月24日)、早天朝7時頃、味方敗北の報知に付、末吉町中において列を作る際、既に敵三方取り囲み砲発す、列中倒れ死する者、恰も秋葉の風に落るが如し、大敗して逃げ、三俣に宿す、一の四28名位出でず、この日井元勇四郎殿・名越傳吉と面會、(以下略)
▲この日末吉にあった筆記人等の部隊は前日あった官軍との戦争で疲れ、ぐっすり寝込んでいた。そこに官軍急襲の連絡である。同様な事例は財部(ほぼ現国道10号線沿い)、さらに都城市の西の庄内町付近でもあった。都城はアッという間に官軍が乱入、別記録には弾薬・食料・器械等が奪われ、病院の移転すら間に合わなかったと記す。一連の戦の終りの始まりであった。
▲画像は財部の戦を示す、国道10号線の曽於市立光神(こうじん)小学校前。この日第四旅団はここを突破して一挙に都城へ向かった。
 ただ、現在の私の手元資料にはその記録は見えないが、某資料に「大隅曽於郡財部小陣山」での死者数11名を挙げる。「小陣山」は「光神山」と考える。

★雲で開聞岳見えず2015年12月25日 12:03:31

網掛川を渡る七つ星
▲昨日(24日)は晴であったが、快晴とは言えなかった。それでもあわよくば写真をと別府川堤防へ。やはりと言うべきか、どう見てもその姿はかすかにも見えなかった。念のため帖佐側に渡って確認したが、同様であった。
仕方がない。目玉となる画像はない。明日の今年最後の写真会は面白くなさそう。
▲研究作業では、今日25日は昨日からの続きで、1877年7月31日の項である。この日佐土原が陥落、そして同時に宮崎も陥落、都城の陥落からわずか1週間のことである。官軍の進攻は早すぎて、西郷軍は留まり、立て直す余力がなくなっていた。
※以下は第四旅団の記録より、一部修正してある。第四旅団は急きょ明日8月1日の大淀川下流渡河を早めた。
①よって31日、左翼浮筏を製し、右翼は海舟の小なるものを折生迫より陸送し、明朝に渡らんことを期せり、やがて午前8時、第三旅団及び別働第三旅団の兵が今朝3時より上流倉岡より進軍するの報至る、そこで急に諸隊に令し、游泳して(泳いで)渡らしむ(伝令使児玉意豁中尉溺る)※折生迫(宮崎市折生迫、県道377・突浪川)
②直ぐに渡り終り、直ちに宮崎川原町に入る、時に別働第三旅団は旧県庁を取る、賊甚だ抗せずして退く、我兵尾撃す、右翼その先鋒(遊撃第二大一中、同三大一中)広瀬の前方に追い及び、攻戦数時、遂にこれを破る、賊広瀬川に迫り、死屍・兵器を棄て走る、そこでここに駐屯す、左翼は島之内に進む(牙営を川原町に移す)※川原町(宮崎市川原町、県道11・大淀川)※広瀬川(石崎川、右岸は旧佐土原町石崎、国道10・県道14・372)※島之内(宮崎市島之内、国道10・石崎川)