★雲で開聞岳見えず ― 2015年12月25日 12:03:31
▲昨日(24日)は晴であったが、快晴とは言えなかった。それでもあわよくば写真をと別府川堤防へ。やはりと言うべきか、どう見てもその姿はかすかにも見えなかった。念のため帖佐側に渡って確認したが、同様であった。
仕方がない。目玉となる画像はない。明日の今年最後の写真会は面白くなさそう。
▲研究作業では、今日25日は昨日からの続きで、1877年7月31日の項である。この日佐土原が陥落、そして同時に宮崎も陥落、都城の陥落からわずか1週間のことである。官軍の進攻は早すぎて、西郷軍は留まり、立て直す余力がなくなっていた。
※以下は第四旅団の記録より、一部修正してある。第四旅団は急きょ明日8月1日の大淀川下流渡河を早めた。
①よって31日、左翼浮筏を製し、右翼は海舟の小なるものを折生迫より陸送し、明朝に渡らんことを期せり、やがて午前8時、第三旅団及び別働第三旅団の兵が今朝3時より上流倉岡より進軍するの報至る、そこで急に諸隊に令し、游泳して(泳いで)渡らしむ(伝令使児玉意豁中尉溺る)※折生迫(宮崎市折生迫、県道377・突浪川)
②直ぐに渡り終り、直ちに宮崎川原町に入る、時に別働第三旅団は旧県庁を取る、賊甚だ抗せずして退く、我兵尾撃す、右翼その先鋒(遊撃第二大一中、同三大一中)広瀬の前方に追い及び、攻戦数時、遂にこれを破る、賊広瀬川に迫り、死屍・兵器を棄て走る、そこでここに駐屯す、左翼は島之内に進む(牙営を川原町に移す)※川原町(宮崎市川原町、県道11・大淀川)※広瀬川(石崎川、右岸は旧佐土原町石崎、国道10・県道14・372)※島之内(宮崎市島之内、国道10・石崎川)
仕方がない。目玉となる画像はない。明日の今年最後の写真会は面白くなさそう。
▲研究作業では、今日25日は昨日からの続きで、1877年7月31日の項である。この日佐土原が陥落、そして同時に宮崎も陥落、都城の陥落からわずか1週間のことである。官軍の進攻は早すぎて、西郷軍は留まり、立て直す余力がなくなっていた。
※以下は第四旅団の記録より、一部修正してある。第四旅団は急きょ明日8月1日の大淀川下流渡河を早めた。
①よって31日、左翼浮筏を製し、右翼は海舟の小なるものを折生迫より陸送し、明朝に渡らんことを期せり、やがて午前8時、第三旅団及び別働第三旅団の兵が今朝3時より上流倉岡より進軍するの報至る、そこで急に諸隊に令し、游泳して(泳いで)渡らしむ(伝令使児玉意豁中尉溺る)※折生迫(宮崎市折生迫、県道377・突浪川)
②直ぐに渡り終り、直ちに宮崎川原町に入る、時に別働第三旅団は旧県庁を取る、賊甚だ抗せずして退く、我兵尾撃す、右翼その先鋒(遊撃第二大一中、同三大一中)広瀬の前方に追い及び、攻戦数時、遂にこれを破る、賊広瀬川に迫り、死屍・兵器を棄て走る、そこでここに駐屯す、左翼は島之内に進む(牙営を川原町に移す)※川原町(宮崎市川原町、県道11・大淀川)※広瀬川(石崎川、右岸は旧佐土原町石崎、国道10・県道14・372)※島之内(宮崎市島之内、国道10・石崎川)