★西南記伝記事にドキリとした2020年12月08日 22:46:47

▲毎日取り組んでいる「西南記伝」の作業も今は「山鹿の戦」に入った。3月10日三浦少将の第三旅団が山鹿方面を担当する。その最初の戦いを「西南記伝」は「十一日」とする。一応済んで確認のため「飫肥隊」がよく描かれているので私の「西南之役懲役人筆記」のそれを開いて見た。こちらは「十二日」とする。ドキリとし資料大幅修正を考え暗然亡失である。次に「征西戦記稿」で突き合わせて見る。こちらは「十二日」。一安心。さらに「靖国神社忠魂史」で作成した官軍戦死者の記録を見る。日付は「312」(3月12日)。もう安心である。正解は「十二日」である、エクセル表の「311」を「312」勝手に訂正させてもらった。
どうして「西南記伝」はそうしていたのであろうか。読み返して分かったことがある。三浦少将は10日山鹿に入り、11日午前4時配置を授けた。分かる。当然1日おいて準備し、翌12日「午前4時半」に各隊戦闘に出るが正しいはず。恐らくここで「十二日」の語句が脱落したのだと思う。
「西南記伝」が有難いのは官軍側と薩軍側をうまく対応させて書いてある。私の資料はそれが十分ではない。それをうまく対応して研究する方に提供するのが役目と考えている。
ところで飫肥隊の記事は「西南之役懲役人筆記」の飫肥隊の某の記録とほぼ相応する。飫肥隊は墓所近くの堡塁を三度攻められ失い、三度取り返すという激しい戦いをした。若しかして「墓所」は今もある?
●飫肥隊記録;西南記伝より※表現は変えた部分もある
①午前10時、官軍再び墓地を攻撃し、復た其塁を奪ひしが、飫肥隊直に返戦して之を復せり、日已に午、勝敗未だ決せず
②午後に至り、官軍三たび墓地に逼り、悪戦苦闘、半晌(昼)の後飫肥隊又復た其塁を失ひ、勢甚だ急なり、伊東祐啓大に兵士を激励し終に之を復するを得たり
③此際、米良一穂、小濱氏興頻りに各塁の間に奔走し、鼓舞尤も力むる所あり
④而して守永守、川崎新五郎共に山鹿より来り、本道右翼の塁に在りて、終日激戦、両軍勝敗を決せずして止みき
⑤此戦、官軍の死者17名、傷者208名、伊地知大尉・皆川中尉・加納中尉・石原中尉・高田少尉補死し、飫肥隊死傷10餘名、隊長郡司稔・石川昌等傷けり、飫肥隊戦利品の重(主)なるものは尾栓銃若干挺、弾薬3千餘発なりき※薩軍のほかの死傷記録なし
▲画像は加治木駅停車中のJR九州の「36+3」の一部。

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