★地名説明の初歩的誤りを訂正2018年02月15日 19:41:55

▲不明地名の解明作業どころか、説明の凡ミスを発見して、その訂正をすることになった。
●その関係2資料(資料は既に訂正されている)。いずれも「西南之役懲役人筆記」(鹿児島県史料西南戦争4巻より)。
①三月三日桐野利秋自将南ノ関を襲はんと拾一小隊を二手に分ち、午前第八時より進発、我隊は乃ち本道の応援として車反坂(車返坂)迄至りしに、先鋒既に腹切坂に戦ふて以て我隊長野村忍介馳せて戦地景況を窺ひ、帰り報して曰く、「余か左翼の方敵少きに似たり、依て直に左翼を突ん」と岩村に出て平山にある敵に掛りしに、敵険に拠り善く拒くを以て容易に破る能はす、防戦時を移して薄暮に至り敵自から退くにより此夜は爰に守兵す、於是隊長野村曰く、「明朝は背後に廻り不意を撃たは必す敗走せん」と、因て各休足し夜の明るを相俟しに※車反坂(車坂クルマザカ、山鹿市鍋田梅迫ウメザコ、豊前街道、国道443梅迫バス停入る)※腹切坂(豊前街道腹切坂、旧三加和町岩イワ下岩シモイワ、下岩官軍墓地)※岩村(旧三加和町岩、国道443・岩村川)【12141008】:(5)
②三月三日桐野利秋自将南ノ関を進撃せんと拾壱小隊を二手に分け午前八時より進発、我隊は本道より進み車返シ坂に至りしに、先鋒既に腹切坂に戦ふ、因て我隊長野村忍介馳て戦地の景況を候ひ帰り報して曰く、「左翼の敵少なき似たり、因て我隊を以て左翼を衝くへし」と、即ち岩村に出て平山にある敵を攻撃するに、敵嶮阻を守り善く拒くを以て閣すく破る能はす、防戦時を移して薄暮に至り敵自ら退くにより此夜は爰に守兵す、於是隊長野村曰く、「明朝は我隊を以て敵の背後に廻り不意を撃たは被れ必す敗走せん」、因て今宵は各休足し※車返シ坂(車坂クルマザカ、山鹿市鍋田梅迫ウメザコ、豊前街道、国道443梅迫バス停入る)【12277007】:(8)
◎すぐ分るが、両資料は内容が似通っている。実は原本である「第4巻」は東京刑務所で懲役刑に服した人の資料である。さらに筆記人の両者は同郷の士である。所属している小隊名は違うが、服役中は交流があったと思われる。
◎私がミスしたのは①は「車反坂」、②は「車返シ坂」の部分。両方とも説明を「車帰クルマガエリ、旧阿蘇町車帰、県道23、二重フタエ峠」としていた。完全な凡ミスである。「車帰クルマガエリ」を「車返シ」としていた例があったのでかん違いしたのだと思う。場所も月日も違うのに。
◎東の山鹿から南関へ向かう桐野利秋率いる西郷軍と官軍は、3月3日・4日、旧三加和町(現和水ナゴミ町)から山鹿市に向かう豊前街道において激戦を繰り広げる。戦いは西郷軍の勝利とされるが、作戦上のミスで山鹿へ引き上げたため無に帰した。この時の激戦の地の一つ「永野原ナガノハル(旧三加和町)」には画像のような説明板がある。またすぐ横に「ハゼ並木」の説明板もある。この画像はGoogleマップで作成したが、西郷軍側から見た豊前街道の風景である。