★轟浜を土々呂の浜と解釈した ― 2020年07月03日 20:25:30
▲以下は西郷軍一兵士の日誌より。
①1877年3月25日植木方面で右肩負傷、その日の内に川尻着。
②31日「味方不利」と御船へ移される。
③4月2日朝7時出て午後2時木山へ着(百姓宮元宅)、同郷8人。
④12日川尻の方面の砲声聞く。
⑤13日矢部へ引き上げとなり晩2時(3日午前2時)発足、午後3時着、行程8里。
⑦15日「重創」は馬見原へ向かう(この日熊本城連絡、官軍勝利)。
⑧16日朝9時同宿一同馬見原へ。午後4時着(田中宅)。行程5里
⑨17日「重創」は延岡領三田井へ発足す。
⑩21日午前9時馬見原発、午後4時三田井着、行程5里半。
⑪22日午前8時三田井発、昼宮水着(先が支えて進めず)。
⑫23日午前8時宮水発、午後(午前か)11時新町(後藤宅)。行程3里(先が支えて進めず)。
⑬24日午前8時新町発、1里の滝下、船に乗る。雨天。午後4時延岡町着(士族小田宅)、同宿8人。
⑭4月27日(原文)
●9時比より降雨、午前7時比延岡町出発、宿駕籠に乗り五里位來り新町と云ふ宿に夫継替昼飯等夕べ今日何とも都合宜敷雨も強く降り候得共昼休みも着後美々津にも着後大雨降出し夫方は新町迄は大壮勇の夫三人にて跡より一番先荷届き候処町より四五町手前にて継替又新町より請取候人夫も四人ながら壮勇の者共にて又二三番に荷届き候処宿も早手當相成居川宮友と云ふ後家所へ二時過着宿直に医衆旅宿へ届出候処暫ありて医三名被参治療被給久保氏原田氏木佐木氏中村氏外に弐名是れは他郷の人同宿す木原氏白坂氏は今日は離宿なり●一今日は轟浜より右は松山左は始終外海辺、新町は戸数140・150位美々津町は1000軒と云ふ由にて、何れも相應の町也、延岡町より美々津町の道法8里※新町(富高新町、日向市本町、国道10・327・県道226・塩見川)※美々津(日向市美々津町、国道10・県道51・302・耳川)※轟浜(不明、日向市平岩金ヶ浜辺か)【20004071】:(1)
◎「※轟浜(不明、日向市平岩金ヶ浜辺か)」は次のように替える予定。「※轟浜(土々呂の浜、延岡市土々呂町1~6丁目、国道10・県道224・226、土々呂漁港)
▲画像は梅雨豪雨の合間に現れた蝶。そのいろんなポーズの1枚。
①1877年3月25日植木方面で右肩負傷、その日の内に川尻着。
②31日「味方不利」と御船へ移される。
③4月2日朝7時出て午後2時木山へ着(百姓宮元宅)、同郷8人。
④12日川尻の方面の砲声聞く。
⑤13日矢部へ引き上げとなり晩2時(3日午前2時)発足、午後3時着、行程8里。
⑦15日「重創」は馬見原へ向かう(この日熊本城連絡、官軍勝利)。
⑧16日朝9時同宿一同馬見原へ。午後4時着(田中宅)。行程5里
⑨17日「重創」は延岡領三田井へ発足す。
⑩21日午前9時馬見原発、午後4時三田井着、行程5里半。
⑪22日午前8時三田井発、昼宮水着(先が支えて進めず)。
⑫23日午前8時宮水発、午後(午前か)11時新町(後藤宅)。行程3里(先が支えて進めず)。
⑬24日午前8時新町発、1里の滝下、船に乗る。雨天。午後4時延岡町着(士族小田宅)、同宿8人。
⑭4月27日(原文)
●9時比より降雨、午前7時比延岡町出発、宿駕籠に乗り五里位來り新町と云ふ宿に夫継替昼飯等夕べ今日何とも都合宜敷雨も強く降り候得共昼休みも着後美々津にも着後大雨降出し夫方は新町迄は大壮勇の夫三人にて跡より一番先荷届き候処町より四五町手前にて継替又新町より請取候人夫も四人ながら壮勇の者共にて又二三番に荷届き候処宿も早手當相成居川宮友と云ふ後家所へ二時過着宿直に医衆旅宿へ届出候処暫ありて医三名被参治療被給久保氏原田氏木佐木氏中村氏外に弐名是れは他郷の人同宿す木原氏白坂氏は今日は離宿なり●一今日は轟浜より右は松山左は始終外海辺、新町は戸数140・150位美々津町は1000軒と云ふ由にて、何れも相應の町也、延岡町より美々津町の道法8里※新町(富高新町、日向市本町、国道10・327・県道226・塩見川)※美々津(日向市美々津町、国道10・県道51・302・耳川)※轟浜(不明、日向市平岩金ヶ浜辺か)【20004071】:(1)
◎「※轟浜(不明、日向市平岩金ヶ浜辺か)」は次のように替える予定。「※轟浜(土々呂の浜、延岡市土々呂町1~6丁目、国道10・県道224・226、土々呂漁港)
▲画像は梅雨豪雨の合間に現れた蝶。そのいろんなポーズの1枚。
★門司から鹿児島まで何kmか ― 2020年07月10日 18:58:23
▲ネット情報から作成した。
①国道10号は福岡県北九州市門司区の老松公園前交差点から始まり、大分県、宮崎県、鹿児島市の照国神社前交差点までの 454.8 km 。
②JR日豊本線は北九州市のJR小倉駅から始まり、大分県、宮崎県、鹿児島市の 鹿児島駅までの462.6 km。
私は宮崎県日向市までは数回車とJRを利用して往復している。両者は、旧隼人町域に入ると10号は錦江湾に沿い、JRは山岳へ沿って霧島へ向かう。宮崎県都城市から一時的に10号と相接交差するが、以後は宮崎県宮崎市までの間は全く寄り添っていない。宮崎からはほぼ沿いながら大分県へ向かう。
ここで今日のテーマに関係する。私はよく自転車で姶良市の西端である重富地区まで走る。そして日豊本線重富駅西側の「蒲生街道踏切」を横断して国道10号(旧道と言う)に出て引き返す。この踏切には「448K343M」とある(画像左)。448kmと343mということだ。ところが国道10号に出てすぐの所に距離標があり、「門司まで447km」(画像右)とある。この2つはほぼ近似値と言える。門司からの10号と小倉からの日豊本線は出発点は違うが、結果的にわが市において両者がほぼ似たような距離であるのは偶然だろうが、私は面白いと思った。
▲雨が続く。球磨川は私の研究では重要な西南の役の舞台である。私は人吉から球磨川沿いに八代まで歩いた。12月29日だが、何年だったかは記憶にない。多分記録を残したはずだがパソコンにはない。写真はない。当時カメラは持っていなかった。約20年前のことだ。高速で人吉インターを下りて車を人吉城近くの駐車場へ置く。歩き始めたときはまだ暗かった。いきなり西郷が宿泊した某寺前に出てびっくりした。資料は地図含め一切なしの旅だった。長くなるので、今回の洪水に絡めたエピソードを1つ。JR線は球磨村の渡から左岸へ、以後左岸を八代へ向かう。私も左岸へ渡り、球磨川を見下ろしながら歩く。某所で電柱にマークと年月日がある。洪水の記録だ。道から川まで30mぐらい、電柱のマークは頭上2mぐらい。そこで気づいた。付近の家々は私の歩く道の10数m上にある。今回改めてグーグルストリートビューを利用して、当時の記憶を元に付近の電柱のあのマークを探した。見付からなかった。それに当時はコンクリート製ではなかったような。
①国道10号は福岡県北九州市門司区の老松公園前交差点から始まり、大分県、宮崎県、鹿児島市の照国神社前交差点までの 454.8 km 。
②JR日豊本線は北九州市のJR小倉駅から始まり、大分県、宮崎県、鹿児島市の 鹿児島駅までの462.6 km。
私は宮崎県日向市までは数回車とJRを利用して往復している。両者は、旧隼人町域に入ると10号は錦江湾に沿い、JRは山岳へ沿って霧島へ向かう。宮崎県都城市から一時的に10号と相接交差するが、以後は宮崎県宮崎市までの間は全く寄り添っていない。宮崎からはほぼ沿いながら大分県へ向かう。
ここで今日のテーマに関係する。私はよく自転車で姶良市の西端である重富地区まで走る。そして日豊本線重富駅西側の「蒲生街道踏切」を横断して国道10号(旧道と言う)に出て引き返す。この踏切には「448K343M」とある(画像左)。448kmと343mということだ。ところが国道10号に出てすぐの所に距離標があり、「門司まで447km」(画像右)とある。この2つはほぼ近似値と言える。門司からの10号と小倉からの日豊本線は出発点は違うが、結果的にわが市において両者がほぼ似たような距離であるのは偶然だろうが、私は面白いと思った。
▲雨が続く。球磨川は私の研究では重要な西南の役の舞台である。私は人吉から球磨川沿いに八代まで歩いた。12月29日だが、何年だったかは記憶にない。多分記録を残したはずだがパソコンにはない。写真はない。当時カメラは持っていなかった。約20年前のことだ。高速で人吉インターを下りて車を人吉城近くの駐車場へ置く。歩き始めたときはまだ暗かった。いきなり西郷が宿泊した某寺前に出てびっくりした。資料は地図含め一切なしの旅だった。長くなるので、今回の洪水に絡めたエピソードを1つ。JR線は球磨村の渡から左岸へ、以後左岸を八代へ向かう。私も左岸へ渡り、球磨川を見下ろしながら歩く。某所で電柱にマークと年月日がある。洪水の記録だ。道から川まで30mぐらい、電柱のマークは頭上2mぐらい。そこで気づいた。付近の家々は私の歩く道の10数m上にある。今回改めてグーグルストリートビューを利用して、当時の記憶を元に付近の電柱のあのマークを探した。見付からなかった。それに当時はコンクリート製ではなかったような。
★4つの不明地名一挙解決 ― 2020年07月14日 23:00:44
▲その4つとは熊本県五木村の地名である。関係ある「西南之役懲役人筆記」の原文を示す。
①同三日(5月15日)より梶原・頭地口・ユス尾四(三)ヶ所番兵
②同三日(5月15日)より梶原并頭地より東に当り、ゆす之尾両所へ番兵
③同(5月)17日頃前軍敗走の趣坂田權重郎申来に付、一と先ユヅノヲ迄退き候処
④翌十九日(5月31日)人吉へ繰込、当夜常山隊右三番隊長迫田權五郎ゆすノ尾にて手負いたし、平野正助より中隊長原田彌兵衞指令にて跡可相勤旨承り
◎地名①「ユス尾」、②「ゆす之尾」、③「ユヅノヲ」、④「ゆすノ尾」が全て同一であることは分かる。地図やネット情報で探し回ることほぼ1日。私の「長考」は続いた。もっとも時間の制限はない。ヒントは③の「坂田權重郎」、④の「迫田權五郎」である。この両名は同一人で正しい名前は④である。そこで「西南之役懲役人筆記」の資料に名前を打ち込み検索すると、彼は戦死することなく隊長という立場で懲役人として刑に服している。その記録には上記の4つの文にはない地名があり、彼の隊の活動が見えてきた。結局4つの不明地名は以下のようになった。例を①にすると、「※ユス尾(葛八重クスノ゙ハエ、五木村葛の八重、葛の八重集会所、宮目木谷)」。迫田の文に「轡ノ羽」とあり、そこに「(葛八重、五木村)」の編纂時の説明が付けてあったことが大ヒントになった。迫田の原文の「くつわのは」は「くずのはえ」と解釈されていたたのである。五木村葛の八重は五木村の南端にあり、彼等はここを去り、人吉へ向かうが、6月1日終に官軍が人吉を占領する。迫田は大畑(おこば)の病院にあったが、まもなく療養のため帰郷する。
※平野正助は幹部、原田彌兵衛は原田種秋(延岡長井村で降服、懲役人)。
▲画像は家人自慢のカサブランカ。何となく映画のあの美人に似てるような。
①同三日(5月15日)より梶原・頭地口・ユス尾四(三)ヶ所番兵
②同三日(5月15日)より梶原并頭地より東に当り、ゆす之尾両所へ番兵
③同(5月)17日頃前軍敗走の趣坂田權重郎申来に付、一と先ユヅノヲ迄退き候処
④翌十九日(5月31日)人吉へ繰込、当夜常山隊右三番隊長迫田權五郎ゆすノ尾にて手負いたし、平野正助より中隊長原田彌兵衞指令にて跡可相勤旨承り
◎地名①「ユス尾」、②「ゆす之尾」、③「ユヅノヲ」、④「ゆすノ尾」が全て同一であることは分かる。地図やネット情報で探し回ることほぼ1日。私の「長考」は続いた。もっとも時間の制限はない。ヒントは③の「坂田權重郎」、④の「迫田權五郎」である。この両名は同一人で正しい名前は④である。そこで「西南之役懲役人筆記」の資料に名前を打ち込み検索すると、彼は戦死することなく隊長という立場で懲役人として刑に服している。その記録には上記の4つの文にはない地名があり、彼の隊の活動が見えてきた。結局4つの不明地名は以下のようになった。例を①にすると、「※ユス尾(葛八重クスノ゙ハエ、五木村葛の八重、葛の八重集会所、宮目木谷)」。迫田の文に「轡ノ羽」とあり、そこに「(葛八重、五木村)」の編纂時の説明が付けてあったことが大ヒントになった。迫田の原文の「くつわのは」は「くずのはえ」と解釈されていたたのである。五木村葛の八重は五木村の南端にあり、彼等はここを去り、人吉へ向かうが、6月1日終に官軍が人吉を占領する。迫田は大畑(おこば)の病院にあったが、まもなく療養のため帰郷する。
※平野正助は幹部、原田彌兵衛は原田種秋(延岡長井村で降服、懲役人)。
▲画像は家人自慢のカサブランカ。何となく映画のあの美人に似てるような。
★4つの不明地名一挙解決 ― 2020年07月14日 23:00:44
▲その4つとは熊本県五木村の地名である。関係ある「西南之役懲役人筆記」の原文を示す。
①同三日(5月15日)より梶原・頭地口・ユス尾四(三)ヶ所番兵
②同三日(5月15日)より梶原并頭地より東に当り、ゆす之尾両所へ番兵
③同(5月)17日頃前軍敗走の趣坂田權重郎申来に付、一と先ユヅノヲ迄退き候処
④翌十九日(5月31日)人吉へ繰込、当夜常山隊右三番隊長迫田權五郎ゆすノ尾にて手負いたし、平野正助より中隊長原田彌兵衞指令にて跡可相勤旨承り
◎地名①「ユス尾」、②「ゆす之尾」、③「ユヅノヲ」、④「ゆすノ尾」が全て同一であることは分かる。地図やネット情報で探し回ることほぼ1日。私の「長考」は続いた。もっとも時間の制限はない。ヒントは③の「坂田權重郎」、④の「迫田權五郎」である。この両名は同一人で正しい名前は④である。そこで「西南之役懲役人筆記」の資料に名前を打ち込み検索すると、彼は戦死することなく隊長という立場で懲役人として刑に服している。その記録には上記の4つの文にはない地名があり、彼の隊の活動が見えてきた。結局4つの不明地名は以下のようになった。例を①にすると、「※ユス尾(葛八重クスノ゙ハエ、五木村葛の八重、葛の八重集会所、宮目木谷)」。迫田の文に「轡ノ羽」とあり、そこに「(葛八重、五木村)」の編纂時の説明が付けてあったことが大ヒントになった。迫田の原文の「くつわのは」は「くずのはえ」と解釈されていたたのである。五木村葛の八重は五木村の南端にあり、彼等はここを去り、人吉へ向かうが、6月1日終に官軍が人吉を占領する。迫田は大畑(おこば)の病院にあったが、まもなく療養のため帰郷する。
※平野正助は幹部、原田彌兵衛は原田種秋(延岡長井村で降服、懲役人)。
▲画像は家人自慢のカサブランカ。何となく映画のあの美人に似てるような。
①同三日(5月15日)より梶原・頭地口・ユス尾四(三)ヶ所番兵
②同三日(5月15日)より梶原并頭地より東に当り、ゆす之尾両所へ番兵
③同(5月)17日頃前軍敗走の趣坂田權重郎申来に付、一と先ユヅノヲ迄退き候処
④翌十九日(5月31日)人吉へ繰込、当夜常山隊右三番隊長迫田權五郎ゆすノ尾にて手負いたし、平野正助より中隊長原田彌兵衞指令にて跡可相勤旨承り
◎地名①「ユス尾」、②「ゆす之尾」、③「ユヅノヲ」、④「ゆすノ尾」が全て同一であることは分かる。地図やネット情報で探し回ることほぼ1日。私の「長考」は続いた。もっとも時間の制限はない。ヒントは③の「坂田權重郎」、④の「迫田權五郎」である。この両名は同一人で正しい名前は④である。そこで「西南之役懲役人筆記」の資料に名前を打ち込み検索すると、彼は戦死することなく隊長という立場で懲役人として刑に服している。その記録には上記の4つの文にはない地名があり、彼の隊の活動が見えてきた。結局4つの不明地名は以下のようになった。例を①にすると、「※ユス尾(葛八重クスノ゙ハエ、五木村葛の八重、葛の八重集会所、宮目木谷)」。迫田の文に「轡ノ羽」とあり、そこに「(葛八重、五木村)」の編纂時の説明が付けてあったことが大ヒントになった。迫田の原文の「くつわのは」は「くずのはえ」と解釈されていたたのである。五木村葛の八重は五木村の南端にあり、彼等はここを去り、人吉へ向かうが、6月1日終に官軍が人吉を占領する。迫田は大畑(おこば)の病院にあったが、まもなく療養のため帰郷する。
※平野正助は幹部、原田彌兵衛は原田種秋(延岡長井村で降服、懲役人)。
▲画像は家人自慢のカサブランカ。何となく映画のあの美人に似てるような。
★研究作業報告 ― 2020年07月20日 22:54:26
▲画像は国土地理院地図に見つけたミス。「奥球磨」が「奥球麿」になっている。
▲研究作業では相変わらず、成果は少ない。もう何回も解明を試みているから至極当然と割り切っている。手を付けようがないので、多くは「2020/7/181:28」などのその年月日と時間を文字で表し、お手挙げを示すのみ。少しでもと市町村の大字小字の情報を集めている。角川各県の地名辞典にはその一覧表があるが、今時ネットでアクセスできない資料はアウト。私も書いた一人なのだが。1400以上の不明地名解明作業はまだ半分にも行かない。それもほとんどは解明不明のまま。その中で以下の作業事例を1つ。
以下原文。
①同20日晴●一午前7時比中屋敷村守付兼に付、3合程引拂、吉花村江着泊す、其夜3合程上山に臺場を築相詰居候処、翌21日午前3時比猶引拂之段報知有之、所々に迫り小河内村江引拂、午後7時過に着泊※中屋敷村(水俣市宝川内ホウガワチ、宝川内川)※吉花村(不明、水俣市宝川内か)※小河内村(小川内コガワウチ、旧大口市小川内、小川内川)【20042087】:(3)
◎「2」で始まる番号は日記・日誌の資料である。
「吉花村」が「不明」であった。平凡社辞典、国土地理院地図ほかでも検索できない。最後に、ネットに「芦北町 吉花」で検索を試みた。期待に反してヒットした。「吉花」バス停があると出た。そこから始めてネットを駆使してついに解明できた。
※吉花村(ヨシハナ、水俣市宝川内ホウガワチ本屋敷、吉花バス停・吉花観音堂)
ここの大字は「宝川内」、小字は「本屋敷」、では「吉花」は何?。現地に行かねば分からないのだろうか。
▲研究作業では相変わらず、成果は少ない。もう何回も解明を試みているから至極当然と割り切っている。手を付けようがないので、多くは「2020/7/181:28」などのその年月日と時間を文字で表し、お手挙げを示すのみ。少しでもと市町村の大字小字の情報を集めている。角川各県の地名辞典にはその一覧表があるが、今時ネットでアクセスできない資料はアウト。私も書いた一人なのだが。1400以上の不明地名解明作業はまだ半分にも行かない。それもほとんどは解明不明のまま。その中で以下の作業事例を1つ。
以下原文。
①同20日晴●一午前7時比中屋敷村守付兼に付、3合程引拂、吉花村江着泊す、其夜3合程上山に臺場を築相詰居候処、翌21日午前3時比猶引拂之段報知有之、所々に迫り小河内村江引拂、午後7時過に着泊※中屋敷村(水俣市宝川内ホウガワチ、宝川内川)※吉花村(不明、水俣市宝川内か)※小河内村(小川内コガワウチ、旧大口市小川内、小川内川)【20042087】:(3)
◎「2」で始まる番号は日記・日誌の資料である。
「吉花村」が「不明」であった。平凡社辞典、国土地理院地図ほかでも検索できない。最後に、ネットに「芦北町 吉花」で検索を試みた。期待に反してヒットした。「吉花」バス停があると出た。そこから始めてネットを駆使してついに解明できた。
※吉花村(ヨシハナ、水俣市宝川内ホウガワチ本屋敷、吉花バス停・吉花観音堂)
ここの大字は「宝川内」、小字は「本屋敷」、では「吉花」は何?。現地に行かねば分からないのだろうか。